→主な著作・掲載誌・テレビやラジオ出演。講演歴はこちらをご覧ください。

196R年1月8日 京都市に生まれる。

エルビス・プレスリー、デビッド・ボウイと同じ誕生日。このあたり、後の音楽狂の凶相がすでに現れている。この日、京都は歴史的豪雪で、僕が生まれた産院の前で市電(路面電車)が雪に乗り上げて脱線。

1969年 京都市立金閣小学校入学。

入学したときは「第二衣笠小学校」だったのに、3年のとき「金閣小学校」というナサケない名前に変わり、死ぬほど恥ずかしかった。だって「キンカクシ・ョウ学校」ですよ。

自分の名字が漢字で書けず、悪戦苦闘。担任が名字を読めず「トリカヤ君」「トカヤ君」などと呼び、クラスの笑いを買うのにウンザリ。訂正するのも面倒臭くなり「ウカヨウ君」で1年間通したこともある。

「もーれつア太郎」「天才バカボン」など、赤塚富士雄の漫画をこよなく愛し、ノートは常にニャロメやケムンパス、ココロのボスなどの落書きで埋まっていた。当然、勉強はまったくせず、成績は最悪。

4年生ごろから重症のインスタントラーメン中毒となり、毎日必ず一食はラーメンを食い続けた結果、醜く肥満。当時の写真を見ると悪夢のように太っており、その後遺症で今も肥満恐怖症。毎朝体重計に乗っては「ああ、俺はもう中年太りだ、もうだめだ」と大騒ぎしている。

ラーメンの景品で「くまごろうラジオ」を当て、深夜放送中毒になる。このラジオで「闇夜の国から」「夢の中へ」など井上陽水の曲に出会い、人生が狂い始める。生まれて初めて買ったポピュラー音楽のアルバムは湯水の「二色の独楽」。恐るべし、くまごろうラジオ。

ボーイスカウト、学習塾、ピアノ、習字、お絵かき教室など、あらゆるお稽古ごとからドロップアウト。重度の「先天性怠け症候群」に今日に至るまで悩まされ続ける。

1975年 私立同志社中学入学。

冗談で受けた同志社大学の付属中学にまぐれで合格。入試の成績はビリから3点、つまり1学年320人中ビリから二番目。算数は40点満点で5点だった。

同志社の付属中学・高校は制服なし・髪型も完全自由で、ついに「制服」を着ることなく教育を終えた。「集団行動嫌い」がこのころ発症。バドミントン部からドロップアウト。

中学1年の英語の授業でビートルズを聞き、本格的に人生が狂い始める。中学3年間はビートルズ以外まったく聞かず、歌詞を全曲暗記していた。(単なるおたく!)「パープル派」「ツェッペリン派」など周囲の悪童がハードロックに狂い、派閥抗争を繰り広げるも、超然。このころから「人が騒いでいるものを嫌う」という悪癖が始まる。ジョン・レノンを崇拝。後期ビートルズが特に好きで「ホワイト・アルバム」と「アビィ・ロード」が愛聴盤だった。

また「ピーナッツ」をはじめアメリカ漫画中毒となり、またしてもノートは落書きだらけ。

中学2年の担任が書かせた「班ノート」(集団交換日記みたいなもの)に毎週10〜20ページの雑文を狂ったように書き、自分が「文章を書くことが好きである」ことに気付く。

狂言、漫才、落語など、上方伝統お笑い芸中毒となる。

中学2年で自転車通学を始め、自転車中毒となる。体型が細くなり始める。ありがたや。

中学3年で本多勝一の「アメリカ合州国」「北爆の下」「中国の旅」を読み、しびれる。

1978年 私立同志社高校入学。

高校に進学する春休みに悪友宅でセックス・ピストルズを聞き、人生が後戻りできないほど狂う。パンクロックに脳細胞を占領される。輸入レコード屋通いが始まり、いくたの財産を散らす。ラモーンズ、テレビジョン、リチャード・ヘル、ジョニー・サンダース、バズコックス、ストラングラーズを特に好む。ストラングラーズの京都公演を見るため、京大西部講堂に初めて足を踏み入れる。不幸の始まり。パンクの祖先を訪ねて、ドアーズやストゥージーズ、ベルベット・アンダーグラウンドなどを聞き漁る。日本のパンクロックにも病気が広まり、INU、ヒカシュー、突然段ボール、フリクション、リザードなどを愛好する。

また、同時期にキング・クリムゾンを聞き、プログレ中毒となる。後期クリムゾン、ELP、イエスなどを特に好む。クリムゾンは今も愛好しているから恐ろしい。

ベースギターを初めて弾いたのもこのころ。ジャン・ジャック・バーネル(ストラングラーズ)とジョン・ウェットン(キング・クリムゾン)を神と崇める。パンクとプログレを一緒に愛好するという分裂症的高校生だった。

サイクリング中毒となる。特にマウンテンツーリング狂で、一日25キロ通学で走っただけでは満足できず、休みになると丹波山地を走り回り、ついに京都市内の丹波山地の峠道全てを制覇。ロックと自転車だけの高校時代でした。

近眼が悪化。前がよく見えず、自転車で電柱に衝突。愛車が大破、本人は頭を強打。懲りてメガネをかけ始める。

1981年 無謀にも京都大学を受験、当然不合格。

京都市内の「近畿予備校」という同志社代大学の向かいにある予備校で、クラい予備校生活。だって高校時代の友達は道路の向かいで遊び呆けているんだもんね。

1982年 京都大学経済学部入学。

入学したのは経済学部だが、卒業したのは軽音楽部。一応専攻は「世界経済論」ということになっているが、ホントにマッタク勉強せず。軽音楽部でバンド活動に明け暮れ、京大西部講堂周辺で4年間終わってしまった。ビートパンク系バンド「ブラック・ボックス」でボーカル、アバンギャルド系バンド「真言密教吉田山」でベース。どういうわけか愛好してくださる方もいて、ライブハウス「拾得」に月1回ほど出演していた。当時の演奏をいま聞くと、穴があったら入れたい、じゃなかった入りたいほど恥ずかしい。

1986年 朝日新聞社入社、三重県津支局に配属される。

東京本社で入社式を終えると、本社6階の編集委員室に直行。本多勝一氏に面会を申し込む。快く30分ほど会ってくれた。コーヒーを飲みながら歓談。緊張で声が震えた。最近はどうしておられるのかなあ。

赴任した三重県津市は人口たった15万人。街の不動産屋みたいな支局の事務所に、記者は6人。僕はずっとサツまわり(事件担当)ばっかり。最初の1年はついにレコードを一枚も買わず。僕のこれまでの人生でレコードを1年買わなかったのはこの年だけ。忙しく、仕事はうまくできずで「半泣きの1年」でした。

1988年 愛知県岡崎支局に転勤。

支局長と2人しかいない小さな支局。自由な方針の支局長で、やりたい放題やらせてもらった。岡崎市の悪名高い管理教育に反対するキャンペーンを勝手に始め、そればっかりに明け暮れる。

1989年 名古屋本社社会部に転勤。

またサツまわり。名古屋はおもしろい街でした。職場が大きくなり、同僚の数が増えると同時にだんだんチームワーク仕事が増え、印象に残るような仕事が減った。

1991年 東京本社AERA編集部に転勤。

生まれて初めて東京に住む。最初は調布に住んだがマッタク土地勘がなく、毎朝通勤途中の新宿駅構内で道に迷って困った。「電車1本で会社に行ける所に住みたい」と、3ヶ月で調布を逃げ出し、足立区に転居。

1992年〜94年 アメリカに自費留学。

会社を2年休職し、ニューヨーク市にあるコロンビア大学The School of International and Public Affairs(国際関係学を学ぶ大学院の修士課程)に自費で留学。年200万円の学費を自分で払い、さらに給料も止まったため、生活に困窮し、一日5ドルで暮らすことを余儀なくされる。英語分からない・授業付いていけない・赤貧の三重苦にあえぐ。甲斐あって修士号を取得。専門は軍事研究・安全保障論。「アメリカの核戦略」「核技術と政治」「軍事産業」「テロリズム」などが主な分野。

1994年 AERAに復職。

2001年3月 「ぱそ」編集部に異動。

10年間在籍したアエラを離れ、同じ朝日新聞社出版局の「ぱそ」編集部に異動。15年間ずっと取材記者だったのに、なぜかいきなり社命により編集者に!それもいきなりパソコン雑誌とは!殿、ご無体な。なぜ烏賀陽がこの雑誌の編集部に配属になったのか様々な憶測を呼ぶ。左遷説も有力。

2001年11月 「出版企画室」に異動。

マジで心身に変調をきたし、1年くらい自宅静養。もうトシだということですね。

2003年6月30日 朝日新聞社を退社し、フリーランスの「もの書き」となる。

「ジャーナリスト」とか「ライター」とか、大仰な肩書きはどうもしっくり来ません(笑)。いちおう名刺には「ジャーナリスト・評論家」と入れましたが、これはまあ便宜上。「職業が何か既存の言葉では言い尽くせない仕事」がしたいなあ。基本的に失業者ですので、お仕事のご依頼、是非よろしくお待ちしております。

音楽を中心としたサブカルチャーの取材と批評はライフワークになりそうな予感がしますが、それだけで終わるつもりもありません。ノンフィクション、フィクション、インタビュー、ルポ、エッセイ、コラム、評論、翻訳と、書いて書いて書きまくりたいと思っています(書きたいことが山のようにあって困っています)。


 

著作】

●2004年7月10日 「文筆生活の現場 ライフワークとしてのノンフィクション」(中公ラクレ新書 中央公論新社)を共著。

●2005年3月20日 「Jポップの心象風景」(文春新書、文藝春秋社)でソロデビュー。

●2005年4月20日 セカンド本「Jポップとは何か〜巨大化する音楽産業」(岩波新書)が発売。

●2005年10月31日「朝日」ともあろうものが。”を徳間書店から出版。17年の朝日新聞社勤務の体験談を書く。(05.10.28)→詳しくはこちら


朝日退社後の主な寄稿先】

●「月刊民放」コラム「どうしてCM音楽はつまらなくなったのか」を寄稿(05.8.5)

05年7月9日に公開された映画「HINOKIO」の劇場パンフレットに「天使としてのジュン」を2ページ寄稿(2005.7.9)

●デンゼル・ワシントン主演の映画「マイ・ボディガード」劇場パンフレットに寄稿(2004.秋)

「GQ JAPAN」04年7月号でロシアの石油王ローマン・アブラモービッチについて1ページ掲載。(04.6.7)

KAWADE夢ムック 文藝別冊 「山田かまち 夭折の詩画人」(河出書房新社)104ページに「18冊の山田かまち」を掲載。「死人」として姿を現した山田かまちがなぜ老若の心をとらえるのかを考察(03.11.24)

電通の社内報「電通報」にコラム「日本の音楽をもっと公共財に」掲載(03.10.28)


インタビュー掲載】

●「日経エンタテインメント!」2005年7月号167ページ「OPINION」

●2005年5月20日付北海道新聞夕刊カルチャー面

「週刊プレイボーイ」2005年5月31日号167ページ「アニキの本棚」


【テレビ・ラジオ出演・講演】

●2005年10月14日24:50、NHK教育に出演。ピーター・バラカン氏がホストの"Weekend Japanology"で「Jポップ」について語る。

●Beanstar社主催、烏賀陽を講師とするJポップ研究講演会で講演(2005.6.29)

埼玉のFM放送「NACK5」の「NACK ON TOWN」という番組に出演(2005.6.14)。

●福岡のFM放送「九州国際エフエム」(通称:LOVE−FM)の「INSIGHT」(インサイト)という番組に4夜連続で出演し。DJはキャロル久末(ひさすえ)(2005.6.13〜6.16)。

●福岡のRKB毎日放送ラジオ「あべちゃん トシ坊! こりない二人」に出演(2005.5.28)

インターネットラジオ"Blue Radio"「源川留々子の星空の歌」 という番組に出演(05.5.19)

●東京・高円寺の喫茶店・CDショップ「円盤」で開かれた、「誰が『音楽』を殺すのか?」の著者、音楽ジャーナリストの津田大介氏との対談「トークバトル」に出演。満員御礼の大盛況でした。篤く御礼申し上げます。(05.9.10)→詳しくはこちら

●2005年10月14日24:50、NHK教育に出演。ピーター・バラカン氏がホストの"Weekend Japanology"で「Jポップ」について英語で語りました。→写真・詳細はこちら


【書評掲載】

●ソロデビュー作「Jポップの心象風景」(文春新書。2005年3月20日発売)

*2005年5月15日付毎日新聞読書欄「今週の本棚」

*「日経エンタテインメント!」2005年6月号

*2005年4月30日付産経新聞読書欄「書評倶楽部」

*「週刊新潮」2005年4月21日号127ページ「TEMPO BOOKS 十行本棚」

*2005年4月10日付東京新聞書評欄

*2005年4月3日付朝日新聞書評欄

●セカンド作「Jポップとは何か〜巨大化する音楽産業」(岩波新書、2005年4月20日発売)

*2005年7月10日付朝日新聞読書欄

*「週刊新潮」2005年6月9日号176ページ「TEMPO BOOKS」


 

 








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