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とても元ホームレスには見えませんね、と切り出すと、ケビン・デンディ(32)は大きな目を細めて微笑んだ。
「そう? 実は気にしていてね。そう言ってもらえると嬉しいな」
マンハッタン中心街にある高層ビルのオフィスで、デンディはパソコンを叩いている。中小企業相手の金融会社が彼の勤め先。融資先の返済が期日通りに進んでいるかどうか専用のソフトを使って管理するのが仕事だ。ここに就職してまだ二カ月少々だが、数字の飛び交う複雑な事務をこなしている。
「パソコンを覚えていなかったら、絶対にこの仕事はなかったね。僕はパソコンどころかタイプさえ打てなかったんだから」
デンディはニューヨークの低所得者の街(ゲットー)で育った。高校を卒業してNY市教育委員会のカウンセラーになるが、七年目でクビになった。再就職しようにも、パソコンを使えない身では肉体労働しかない。レストランの皿洗いに花屋の配達、用務員と転々としたあげくドラッグに手を出し、最後はホームレスになってしまった。
人生が変わったのは路上生活を送って一年目。「ドー・ファンド」という全寮制のホームレス更生団体にたどり着いた時だ。昼は、通りの掃除をする。その代わり、部屋と食事をもらう。ドラッグ中毒の治療や、職業訓練プログラムを受ける。そんな仕組みだ。デンディがパソコンを覚えたのも、ここである。やり始めると面白くて、ワープロ、表計算、インターネットと次々にマスターした。
○パソコンで所得に格差
肉体労働時代はいくらがんばっても時給五ドルがせいぜいだったが、今ではその倍で、年収二万一千ドルだ。自分のアパートを借りて恋人と暮らしている。最近、自分のパソコンも家に買った。彼女に捧げる詩をパソコンで書いている。リッチとはいえないが、とてもハッピーだ、と言う。
「僕が育ったハーレムでは、パソコンのある家なんてなかった」
デンディはそう言う。
周囲で、貧乏でない大人といえば麻薬ディーラーぐらい。貧困と家庭崩壊から、少年の非行や麻薬が蔓延。高校ドロップアウトが問題になっているのに、パソコンを覚えるどころではない。パソコンが使えなければ、給料の高い事務職に就職する望みはない。所得は低いまま。悪循環である。
これは統計でも裏付けられている。年収七万五千ドル以上の家庭の約七五%がパソコンを持っているのに対して、二万ドル以下の家庭ではパソコン保有率は二二%でしかない(民間調査会社ジフ・デイビス調べ)。裏返して言うと、パソコンを使えるかどうかで所得に格差が生じているわけだ。
コンピューター・リテラシー。パソコンを扱う能力のことを英語でそう呼ぶ。
元々「リテラシー」とは読み書きの能力のことだ。パソコンが使えなければ、読み書きができないのと同様の不利を就職で覚悟しなくてはならない。米国はそこまで来ている。
とはいえ、米国家庭のパソコン普及率はまだ五〇%弱。まだまだパソコンを使えない人も多い。年齢に関係なくある日突然レイオフされることが日常茶飯事の米国人にとって、これは深刻な話だ。
パソコン学校は大盛況である。
「パソコンが使えないと所得に差が出るかって? それどころか、仕事はないですね。特に事務職では絶望でしょう」
マンハッタンで一般向けパソコン学校「キャリア・センター」を開くマーク・スタンバーグ社長(39)はそう話す。その名の通り、同社は就職に目的を絞っている。
○景気拡大で教室広がる
やって来る人の七割が就職、三割が転職狙い。現在、生徒数は全米四位の約三万四千人。ここ二年でパソコン教室産業は二倍以上の千億ドル規模に成長した、という。
「どんなソフト使えますか? 面接では、まず間違いなく聞かれます。履歴書にも、必ず扱えるソフトを明記するよう教えています」
教室では「ウィンドウズの基礎」の授業の真っ最中である。平日の昼間のせいか「生徒」の年齢はやや高め。お父さん、おばあさんがパソコンとにらめっこしている。
「はい、今日はメールを送ってみましょう。アイコンをダブルクリックしてください。影がつきましたね? ウインドーを閉じる時は右肩の×印をクリックして……」
まさに手取り足取りである。
画家のアントニア・ゲレロ(46)は、最近NYに引っ越してきた。生活費が高くて大変なので事務職を探したが、パソコンを知らないので職がない。十日間の基礎コースに駆け込んだ。
「不利です。本当に深刻です。なんとか美術館か画廊の秘書の仕事を見つけたいんですが……」
スタンバーグによると、パソコン教室が爆発的に広がったのは米国の景気が拡大し始めた一九九二年ごろだ。それまでの不況に苦しんだ企業が、コンピューター導入で生産性の向上を狙った。一方、経費削減のため社内研修をカット。パソコン技能のない人材をレイオフして、技能のある人材だけを雇うようになった。
○重役クラスにもコーチ
加えて、ビジネスに必要なソフトの種類が増えた。以前ならワープロと表計算ソフトくらいで十分だったのが、最近はインターネットにメール。プレゼン用ソフトもビジネスには欠かせない。
一方、運良く職を見つけても、のんびりとはしていられない。コンピューター習熟度が業績に影響する時代になったからである。
いま事務系社員に最も高い習熟度が要求されるのは金融業界だ。
「マーケットの小さな動きを先に知ることで、競争相手に勝てる。より進んだコンピューターテクノロジーを持つ者が、より有利な立場を勝ち取るのがこの業界です」
モルガン・スタンレー証券のレズリー・フリーマン技術開発部長はそう話す。
スワップ、オプションにフューチャーと複雑を極めるデリバティブ取引の計算。瞬時に世界を駆けめぐる金融情報。そんなハードな要求に応えるために、同社はパソコンより一段上の処理能力を持つワークステーションを使っている。ただでさえ専門性が高い金融業。使いこなすのは大変である。
さらに大変なのは、ソフトが定期的にバージョンアップされることだ。同社の社員は全世界に一万二千人。バージョンがばらばらでは仕事にならない。そのたびに「虎の巻」を発行しインターネットや教室で研修をしなくてはいけない。
さぞや社員はコンピューターに習熟した強者ばかりと思いきや、そうでもないらしい。
「パソコン音痴はどこにでもいます。マウスを使ったことさえない人もいるんですから。年長の方には長年パソコンなしでビジネスをした方もいますから、やはり大変ですね」(フリーマン部長)
そうしたパソコン音痴のために、同社はNYだけでも十五人ほどの大学院生アルバイトを雇っている。一室に待機、「救援」を求める電話やメールが入ると駆けつける文字通りの「助っ人」である。同部長の言葉を借りれば「サバイバル技術を教えるコーチ」だ。
重役クラスからコーチを求められることもしばしば。重役といえども、最近はプレゼン用ソフトを使えないと仕事にならないという。
金融業界に限らず、いったん企業がコンピューターを導入すれば、システムやソフトのバージョンアップは終わることがない。社員は永久に勉強に追われる。楽じゃない時代になった。(敬称略)
(AERA 1999年01月18日)
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