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今回のドル売りの口火を切ったのは、ニューヨークより五時間先に開くロンドン市場である。
ニューヨークの邦銀に勤める外為ディーラーは、十月七日朝五時ごろ、いつものように枕元のポケベル型ニュース受信機を確かめた。ロンドン市場で、ドルが暴落。以前から兆候のあった不自然な資金移動がついに本格的に始まったな、と思った。
それが、まるで乱気流に巻き込まれたかのような円ドル相場乱高下の二日間の幕開けだった。
○強気一辺倒は影潜める
「一体この世界はどこへ行くのか。金融当局はここまで無力なのか。ディーラーにそんな恐怖を感じさせる市場になってしまった」
今回の通貨危機は、これまでのものとは規模が違う。外為ディーラー十二年の経験があり、九二〜九三年の欧州通貨危機も現地で目撃した彼はそう感じている。
確かに、今回のドル暴落は常軌を逸した点が多い。
まず、ドルは円以外の通貨に対してほとんど動いていない。対ポンドで〇・〇二一五ポンドのドル高、対マルクでは〇・〇一六二マルクのドル安(七日)。突風が吹き荒れたのは円ドル市場だけだ。
かといって、日米両国が為替市場に協調介入したわけでもない。日本の景気が好転したことを表す指標もない。減速ぎみではあるが、米国の景気が大きく後退したことを示す指標もない。日米の実体経済は何も変わらないのに、為替相場だけが大きく変動したのだ。
「日本のファンダメンタルズが改善したという認識は市場には薄い。円高ドル安ではなく、ドル売りだけが一方的に進んだと考えるべきでしょう」(邦銀関係者)
米国人も困惑しているようだ。八日付ニューヨーク・タイムズ紙経済セクションのトップ記事は、ドルの暴落ではなかった。トップ記事は題して「バラ色の経済・続くのか、終わるのか?」。賃金は上昇し、失業率は低下している。そんな楽観的なグラフと、輸出の低下や企業収益の悪化を示す悲観的なグラフを両論併記。併せて「金融市場はいくぶん臆病な心理に陥っているようだ」(七日)と、グリーンスパン連邦準備制度理事会(FRB)議長が四カ月前の楽観的な見通しから発言のトーンを変えたことを伝えている。
景気は悪くないのに、なにか得体の知れない影が忍び寄っている。この夏までの強気一辺倒の論調は影を潜め、そんな「気持ちの悪さ」がメディアにも現れ始めた。
ドルを売ったのは一体誰なのか。
冒頭のディーラー氏は、一ドル=一二〇円を切った時点であちこちに電話をかけてドル下落の原因を尋ねている。答えは「米系ヘッジファンドがドルを売っている」だった。
○ヘッジファンド動いた
構図はこうだ。ヘッジファンドが最初にドル売りの口火を切り、ドル安の流れができた。すると、他の機関投資家も為替差損を避けるために先を争ってドル売りに走った。複数の外為関係者の意見は一致している。
では、なぜヘッジファンドはドルを売ったのか。
「円建て債務がらみの取引を整理しているらしい。世界同時株安で被った損失を埋めるためでしょう。投資の戦線を縮小しているのではないか」
富士総合研究所ニューヨーク事務所の江間彰夫所長はそう話す。
米国より金利の低い日本で円建て資金を調達し、ドルに替えて投資する取引を「円キャリー取引」という。米ヘッジファンドは、日本で資金を調達し、それを米国債に投資していたらしい。日本の貸出先は特定できないが、九三年ごろからその存在は噂されていた。
確かに、ドル安と前後して三十年もの米国債は売り市場になった。ヘッジファンドは、まだ利益が確保できるうちに、国債を売って円建て債務を返済しているようだ。
「円キャリー取引が実際にこれだけの規模で存在したことが、今回のドル安のマグニチュードではっきりと分かった」(江間所長)
○米市場に恐怖感が充満
いずれにせよ、今回の円ドル乱高下劇は、実体経済から離れた小さな「金融村」が引き起こしたことだけは確かだ。
さて、その「金融村」の有力ヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)社が巨額の損失を出して事実上の経営破綻に追い込まれたのは九月末だ。
それと前後して、ウォール街にはおかしな流言飛語が飛び交うようになった。
△△銀行はヘッジファンドに巨額の不良債権を抱えている。○○ファンドが破綻した。そんな噂だ。口コミだけでなく通信社が配信することさえある。
「馬鹿馬鹿しい噂でも、今の市場の心理状態ではまったく否定することもできない」(邦銀関係者)
確かに、根も葉もないデマでもないようだ。十四日、全米第五位の銀行「バンカメリカ」は、ヘッジファンド「D・E・ショー」社への貸し付けが焦げ付いて三億七千二百万ドルの損失を被ったことを明らかにした。
米市場には「コックローチ(ゴキブリ)セオリー」という俗説がある。ゴキブリを一匹見たら、他にもまだたくさん隠れている、という「理論」である。
十月中旬は米企業の第3四半期の決算発表シーズンだ。まだ巨額の不良債権を隠している銀行がたくさんあるのではないか。市場の疑心暗鬼は飽和点に達していた。
不安要因はヘッジファンドだけではない。アジア、ロシア、中南米経済の混乱。いつ米国経済に波及するのか。今年夏以降、米市場にはそんな恐怖感が充満していた。
「確かに、リスクを回避しようとする動きが市場に広がっている。今までよりは銀行も貸し出しに慎重にならざるをえないだろう」
シティバンク外国為替部のジェームズ・ケンプ部長はそう言う。
では、これから先、米国経済はどうなるのか。専門家の見解は分かれる。
○全世界のタンス預金化
ケンプ部長は楽観的だ。銀行の貸し渋りを避けるため、FRBが十一月には利下げに踏み切るだろう。日本のような深刻な貸し渋りは起きず、景気の減速は食い止められる。同氏は、ドル安を不況への入り口と見るマスコミの論調を「誇張しすぎ」と釘を刺す。
江間所長はやや悲観的だ。ドル安による輸入価格の上昇が、好景気持続の足を引っ張る。が、それも「異常な好景気」が「普通の好景気」に減速するにとどまる。
冒頭の邦銀ディーラー氏は、一つの可能性として最悪のシナリオを提示してくれた。
疑心暗鬼が高じてリスクに過度に敏感になり、信用収縮が世界規模で起きる。株も債券も怖くて買えず「全世界がタンス預金化」する。今回のドル安はその入り口かもしれない、というのだ。
「これまでの通貨危機は地域が限定されていた。敗者もいたが必ず勝者がいた。今回は世界戦に入っている。もし信用収縮が世界規模で起きれば、誰も勝者はいない」板子一枚下は地獄。いま、世界経済はそれぐらい脆いバランスの上に立っているのだ。
●円ドル相場、記録的な乱高下
10月7、8日の円ドル相場はまさにジェットコースターだった。まず7日。ロンドンでのドル売りの流れを受けたニューヨーク市場では、前日の1ドル=130.85円から120.25円と、一気に約10円もドルが下落。1日で8.1%もの急激な変動は、1973年に円ドルが変動相場制に移って以来の記録だった。続く8日も下落は止まらず、111.73円まで落ちた。
ところが、8日午後にニューヨーク連銀がディーラーに接触し始めると、これがドル買い介入のサインと受け止められ、今度は119.5円までドルが急上昇。その後も小さな上下を繰り返し、14日の終値は1ドル=118.86円。
(AERA 1998年10月26日)
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