1944年9月、被爆前の広島の「興南寮」で南方特別留学生たち。



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広島で出会った原爆と甘い青春 南方特別留学生50年後の同窓会

下宿。大学。仲間。青春の思い出。そして、それを切り裂く原爆の悲惨な記憶。五 十年前の元留学生たちが、広島を再訪した。大東亜共栄圏の証人たちは、確実に老い ていた。

 

 



 

広島市内の川の土手を、11人の老人たちが歩いている。太平洋戦争中、東南アジア の国々から日本に学んだ元「南方特別留学生」の一行だ。

炎暑の中、彼らの歩みは遅 い。無理もない。五十年後にして初めての広島での同窓会に集まったかつての青年た ちは、今では七十歳前後に齢を重ねた。今日は八月六日。原爆がこの街に落とされて 五十年後の日だ。

朝、平和記念公園での式典に出席したあと、元安川のほとりに立つ 赤い小さな碑のところに来た。五十年前、彼らが暮らし、広島高等師範学校や広島文 理大へ通った二階建てのアパート「興南寮」の跡である。

が、もはや当時を偲ばせる ものは目の前の川の流れくらいしかない。

「今の広島を見てあの日を想像するのは、 難しいでしょうね」

緑の木立の合間に高層ビルが並ぶ町並みを見ながら、マレーシア の大学教授アブドゥル・ラザク(70)が言った。

ラザクを含め、被爆した元留学生四人が同窓会に来た。ブル ネイの首相を八年務め、今も国王の首席顧問の要職にあるプギラン・ユスフ(72)。 インドネシアの国会議員や大統領顧問を歴任したハッサン・ラハヤ(70)。やはり インドネシアの弁護士シャリフ・アディル・サガラ(70)。それぞれ、戦後も日本 の企業や政界とのつながりを持ち続けた人たちである。

「南方特別留学生」は、占領 地の東南アジアで日本に好意的な指導者を育てようという軍部の目論見で始まった。 その多くは、王族や政府高官など有力者の子弟。フィリピン、タイ、ビルマ、現在の インドネシアやマレーシアなどから、一九四三年から二年間に二百十一人が日本に集 められた。

留学生たちは、一年間東京で日本語などを勉強したあと、広島や徳島、宮 崎など全国の学校へ散っていった。広島の学校に入学した二十人以上の留学生のうち、 転校や入院を経て、残った九人が原爆に遭遇。爆心地から約八百メートルの寮では、 二人が犠牲になった。

広島は、彼らにとって青春の思い出の地であり、同時に残酷な 原爆体験の地でもある。

「空襲警報が解除になり、先生が授業を始めようとした瞬間、 教室の左の窓から閃光が貫いた。私が『キレ(光だ)!』と叫ぶと同時に、オウゥー という名状しがたい音が鳴り響き、校舎が崩れ落ちた」(ラザク)

碑のそばの万代橋 で、ラザクはユスフと並んで記念写真を撮っている。二人は、原爆投下の瞬間大学の 同じ教室にいて、共に崩れた建物の下敷きになった。運よく建物からはい出して約一 キロ離れた寮にたどり着いたあと、万代橋に横たわる瀕死の人々に水を与えて助けよ うと奮闘したが、空しかった。そんな辛い思い出がある。

ユスフは、母国のオフィス に原爆ドームの模型を置いている。

「今でもまだ声が聞こえるのです。『助けてくだ さい』『水をください』と。毎年八月六日になるとあの時を思い出し、アラーに平和 を祈るのです」

ユスフとサガラは、この日五十年ぶりに再会したばかりだ。寮の自室 にいて被爆したサガラは、建物の下敷きになったうえガラスの破片が顔に刺さり、今 も涙腺が切れたまま。額にも傷痕が残っている。

ユスフもサガラもラザクも、被爆後 髪が抜けたり、発疹や白血球の減少などの放射能障害に苦しんだ経験がある。

日本の 植民地政策ではるばる広島まで来たあげくに、この惨い体験。日本人に悪感情はない か、とおそるおそるサガラに尋ねた。

「いえ。私は自分の意思で広島に来ました。そ れに、人の過ちを罰するのは神の仕事です」

そして、こう付け加えた。

「被爆後数日 して、私は疲れ果てて道端で休んでいた。すると、見知らぬ男性が来て『お兄ちゃん、 疲れたのか』と真っ赤なトマトをくれた。私は広島で『慈悲の心は世界共通だ』と学 んだのです」

空腹。不慣れな寒さ。家族と離れた異国の生活。憲兵隊や特高警察の監 視。つらかったはずの留学生活について尋ねても、愚痴や批判は誰の口からも出ない。

前向きな態度は、五十年前から変わらないらしい。同窓会を 準備した会社経営者、花岡俊男(六八)は言う。

「南国の人の朗らかさでしょうか。 五十年前に彼らと過ごした時間は、暗い戦争をつかの間忘れる楽しい一時でした」

花 岡の実家は、興南寮のすぐそばにあった。彼自身が広島文理大学の研修生だったこと もあって、留学生たちと仲良くなるのに時間はかからなかった。花岡の家は軍と取引 のある商店で、カレー粉やタイ米などが手に入った。花岡一家と留学生たちは、食事 や海水浴に集まっては、それぞれの国の民謡を歌って交歓する仲になった。そして、 親交は五十年後も続いている。

八月五日にホテルで開かれた歓迎会には、花岡のよう なかつての友人たちが次々にやって来た。男性よりは女性が多い。寮の前の土手で歌 を歌ったり、ピクニックに出かけたりした仲間だった。

広大の学生だった吉川英子( 68)は、サガラと恋仲だった。被爆当日も一緒に大学へと向かったが、彼が忘れ物 を取りに寮に戻り、二人とも命拾いをした。

その後もサガラは家を失った彼女を探し 出し、入院すると枕元で得意のバイオリンを弾いて慰めた。家を失った留学生たちや 友人たちは、約一週間大学のグラウンドで野宿をした。

「一緒に星を眺めたり、歌を 歌ったり。つらい事を忘れた一瞬でした。若かったんですね」中村千恵子(68)は そう話す。

ユスフの元には、栗原明子(69)が訪ねてきた。五十年前にユスフが彼 女に出した手紙を、ずっと保管していたのだ。

「これは確かに私の手紙です」

彼は感 激して絶句した。が、自分が書いた文面が読めなかった。日本語を忘れたのだ。

「五 十年前のことははっきり覚えているのに、二日前のことを忘れたりする。もう七十で すから」

サガラはそう言った。三年前に呼吸困難に陥り、一カ月ほど入院。ずいぶん 痩せた、という。ラザクは白内障の手術をしたばかりだ。元留学生たちは老いている。 広島での同窓会は、これが最初で最後になるでしょう。元留学生たちは、そう言い残 して母国へと帰っていった。

(文中敬称略)

(AERA 95.8.28)





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