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広島で被爆、京都に眠る。有志の法要は30回を重ねた。 |
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比叡山麓、炎暑の坂道を上がる。京都の街を見下ろす「圓光寺」が、オマールさん の永眠の地だ。 太平洋戦争中、軍部の肝いりで始まった「南方特別留学生」の1人、現在のマレー シア出身のサイド・オマールさん。広島文理大学在学中に原爆に遭い、1945年9 月3日、19歳で亡くなったことは、本誌34号(8月20日号)で書いた。 イスラム教に従い、亡きがらは故郷に帰ることなく、最期の地である京都に葬られ たのである。 9月1日。オマールさんの法要が市民の手で営まれて、もう30回目を数える。 墓石に掛けられた千羽鶴が目を引く。地元の修学院小の子どもたちが手向けたもの だ。 昨年11月、社会科の勉強で寺を訪ね、オマールさんのことを知ったそうだ。修学 旅行で広島を訪ねたときには、留学生たちが暮らした「興南寮」跡にも行った。 実は、この法要を毎年主催している園部達夫さん(48)は、オマールさんとは一 面識もない。 広島から東京へ帰る途中に放射能障害が悪化、京都で死去したオマールさんは、ひ っそりと、市営墓地に葬られていた。 1951年、週刊誌でオマールさんの悲運を知り、私財を投じて墓を建てたのが、 園部さんの父の故健吉さんである。健吉さんも、オマールさんとも、マレーシアとも、 何の縁もない一介の市民だ。 京都市の職員だった健吉さんは、イスラム式の墓の様式を調べ、異教徒の埋葬を引 き受けてくれる寺院を探して歩いた。 オマールさんの墓碑銘を武者小路実篤氏が書いたのも、武者小路氏が、健吉さんの 家族が経営する料理旅館の常連だった縁である。 法要は、毎年9月の第1日曜と決まっている。83年に健吉さんが死去したあとは、 達夫さんが後を継いで、関係者への連絡役を引き受けている。 少なくなったとはいえ、京都には、生前のオマールさんを知る人が何人か健在だ。 医師の福田吉穂さん(75)も、その1人。 軍医として赴任したジョホール・バル市で、オマールさん、妹、母親の一家と出会 った。オマールさんは当時16歳だったが、すでに日本語を上手に話せた。「因幡の 白うさぎ」を話して聞かせると「マレーにも似たような話があります」そう喜んだのを覚えている。 それから26年。1968年、オマールさんの墓を探しに来た妹のアザーさんと、京 都で再会した。アザーさんのことを新聞で読んだのがきっかけだった。 京都帝大病院でオマールさんの最期の手当てをした濱島義博医師(68)は、京都 大学教授を経て、現在は京都女子大の学長だ。 放射能障害の治療が確立していない時期である。濱島さんは自分の血を抜いてオマ ールさんに輸血した。 「これで僕は先生の弟です。日本人を恨んではいません」 オマールさんは、そう言い残して亡くなったそうだ。 私事を記すことをお許しいただきたい。34号が出たあとになって、2つの偶然を 私の母親から教えられ、驚いた。 一つは、濱島さんが私の幼いころのかかりつけの医師だったこと。もう一つは、福 田さんが、私の祖父の従兄弟だったこと。 何とも不思議な「お盆」の巡り合わせだった。 (AERA 91.9.17 ) |
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