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被爆死したマレーシア青年・オマール君の妹を尋ねて

原爆で死に京の寺に眠る南方特別留学生サイド・オマールさん。その肉親をマレーシアに訪ねた。ただ1人の実妹は、ヒロシマに決して行きたくないと語った。

 



臨終の床で着ていた浴衣と、本が数冊。それが、日本から送り返されてきたサイド ・オマールさんの遺品のすべてだった。  

オマールさんの家族で、ただ1人健在の妹、アザー・アジスさん(63)は、この 形見の品をトランクに詰めたまま、もう40年以上も開けていない。  

「見れば、兄のことを思い出して、悲しくてたまらない。これからも、開けること はないでしょう」

 「サイド・オマール 昭和1年(ママ)7月28日生まれ マライ出身  昭和19年4月 広島高等師範学校入学  同20年4月 同文理大入学  同20年9月3日 原爆のため負傷、京都帝大病院で死亡」  

東京の国際学友会の「学籍簿」には、こんな記録が残っている。  

オマールさんが南方特別留学生に加わったのは、自分の意思ではなく、日本軍の指 名である。  

オマールさんの家は、祖父がシンガポールと対岸のジョホール州の首相を務めた名 家。  

1942年1月の日本軍による占領以来、マレーの学校では日本語で授業が行われ ていた。日本語の成績が抜群だったことも、選ばれた理由のひとつだった。  

アザーさんは、オマールさんが、留学の話をとても喜んだのを覚えている。学者を 目指していた彼には、外国で勉強ができることが嬉しかったのだ。  

が、母親は頑強に反対した。  

故郷のジョホール・バル市では、2000人以上といわれる中国系住民が日本軍に 虐殺されている。父親は、オマールさんが幼いころに亡くなって、3人きりの家族だ った。母親が心配したのも無理はない。  

広島の学校に入学した南方特別留学生は、全部で20人以上いたが、転校や入院で、 オマールさんら7人だけになっていた。  

そして、45年8月6日朝。  オマールさんは、宿舎の「興南寮」1階の自室で、ズボンにアイロンをかけていた。 たまたま、授業は休講だったのである。  

やはり隣の部屋にいたシャリフ・アディル・サガラさんは、その瞬間を鮮明に覚え ている。  

空襲警報が解除になって、昼食用の弁当を食べていた。  

飛行機の爆音が、いつもよりずいぶん大きい。空を見ようとガラス窓を開けた瞬間、 強烈な閃光。とっさに部屋の中に身をかわしたが、爆風で床に叩きつけられた。血が 目に入って何も見えない。  

息を吸うと、砂が鼻に入る。体が動かない。崩れた建物の下敷きになったのだった。  

こんなふうに死ぬのか。  

まだ母親に何の親孝行もしていないじゃないか。ぼんやりした意識の中で、どうか 力をください、とアラーの神に祈っていた。  

寮には、もう1人、マレー出身のニック・ユソフ・アリさん(20)がいた。玄関 で寮母と立ち話をしていた彼は、崩れた建物からはい出ると、火の海に向かって走り、 そのまま帰らなかった。  

原爆が炸裂したのは、「興南寮」からわずか800メートルの相生橋上空だった。  

一方、爆心地から1キロほどのところにある広島文理大学の教室では、ちょうど自 然科学の授業が始まるところだった。  

「先週の続きですが……」  

そう言って、教授が黒板に歩みよったその瞬間、閃光が貫いた。  

教室にいた4人の南方特別留学生の1人、インドネシアのアリフィン・ベイさんは、 建物が持ち上げられ、天井を突き破ってグランドピアノが落ちてきたのを覚えている。  

全壊した校舎の下からはい出ると、4人は寮を目指して走った。  

誰もが、これはただごとではない、と感じ始めていた。  

ありとあらゆる建物が、原形をとどめないほどに壊れていた。  

「トーロン(助けて)」  

全壊した「興南寮」の下から、かすかな声が聞こえた。サガラさんだった。4人が 力まかせに引っ張ると、瓦礫が崩れて、サガラさんは助け出された。  

大火傷を負った人、全身にガラスの破片が突き刺さった人があちこちに横たわって いる。  

猛烈な炎が迫っていた。  

近くの川に飛び込んだ。けが人を戸板に乗せて運ぼうとしたが、その人たちも次々 に死んでいった。  

東京の国際学友会から迎えが来て、広島を脱出するには、8月25日まで待たなけ ればならなかった。  

当時、広島から東京へは汽車で丸1日の行程である。  

オマールさんは、無事だった。崩れた寮から脱出したあと、大学へ走って友人たち を探し回っていたのである。

ところが、汽車の中でオマールさんは高熱を出して苦しみ始めた。衰弱がひどく、 一行は、京都で途中下車する。  

8月30日、京都帝大病院に入院。しかし、わずか4日後にオマールさんは放射能 障害で亡くなる。まだ19歳だった。  

粗末な食事に、留学生たちはよく不満を爆発させた。が、そんな時でもオマールさ んは、いつも後ろで黙って見守るだけだった。  

母国の母親の元には、ときおり知人に託して、オマールさんの手紙が届いた。決ま って、万年筆や日本の織物などの土産が添えられていた。食事の粗末さや寂しさには 触れず、「日本や他のアジアの国の友人ができて、楽しい」そんなことばかりが書いてあった。母親を心配させたくなかったのだろう。  

そんなオマールさんが本心をのぞかせるのは、東京の寮で母親代わりを務めた上遠 野寛子(かどの・ひろこ)さんにあてた手紙である。  

「広島では私1人だけで淋しくて淋しくてたまりません。しかし私達は日本に勉強 に来たのですから、もっと元気を出してうんと我慢しなければなりませんね。一層努 力して、南方の本当の有力なる指導者になって新しいマライひいては東洋平和の為に、 強く正しく明るくさしのぼる朝日の如く邁進したいと思います」(昭和19年5月)  

オマールさんは万葉集が好きで、自分でも短歌を作っていた。  

「母を遠くに離れてあれば  南に流るる星のかなしけり」  

これが、最後の歌である。  

オマールさんは、イスラムの教えに従って、亡くなった土地である京都市左京区一 乗寺の円光寺に葬られている。  

母親は、15年前に亡くなるまで、ついに日本へ行こうとはしなかった。  

今でも、日本人が憎いか。おそるおそる、アザーさんに尋ねた。  

「いいえ。誰かを憎んだところで兄は帰ってこない。あれは戦争だったのだ、と考 えています。そう考えないと、とても現実を受け入れられないのです。確かに、戦争 を始めた日本は悪い。けれど、日本人も、罪もない子供たちまでが原爆で無残に殺さ れた。懲罰としては行き過ぎだった、と思っています」

(AERA 91.8.20)





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