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南方特別留学生は総計211人。ブルネイ、フィリピン、マレーシア、インドネシ アの6人に会った。彼らの人生は日本とアジアの半世紀の縮図でもある。 |
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ブルネイの首都バンダルスリブガワン。にぎやかなイルミネーションであふれた街に日が落ちると、人々が繰り出す。 立ち並ぶ露店から、ドリアンの強烈な匂いがただよってくる。 この国は、世襲のスルタン(国王)が首相を兼ねる立憲君主国。街を満たす飾りは、スルタンの誕生日を祝っているのだった。 その王室の血を引き、ブルネイの首相を1967年から73年まで務めた、プギラ ン・スティア・ヌガラ・ユスフ氏(68)は元「南方特別留学生」であり、留学先の 広島文理大学で原爆に遭遇した被爆者である。 政界を引退したユスフ氏は、貿易、海運、不動産などの企業グループの副会長であ る。 「ニッポンセイシン、アマテラスオオミカミ、ウミユカバ……。それから、私はヒ バクシャです」 45年8月6日のことを語るとき、温和なユスフ氏の顔は歪む。 「空襲警報が解除され、私はのんびり教室へ歩いていました。そこへ、留学生仲間 が『おーい、もう教授が来ているぞ』と呼んだのです。あわてて駆け込み、礼をして 座ったとたん、ものすごい爆発音がして気を失った。あの時、声をかけられなかった ら、ここでこうしてお話をしていることもなかったでしょう」 闇の中にかすかな光が見えたとき、本能的にその方向へ這った。外へ出ると、教室 のあった校舎は、瓦礫の山になっていた。 ヒロシマの惨状は、故郷にも伝わっていた。戦争が終わって1カ月後、ブルネイに 戻ったユスフ氏の姿を見た母親は「死んだ息子が生き返った」と泣いて喜んだ。 帰郷後、ユスフ氏は全身に発疹ができ、猛烈なかゆみに襲われた。死ぬ、と思って 恐怖で眠れなかった。広島で同じように被爆した留学生仲間のサイド・オマールさん が、約1カ月後に急死したことが頭をよぎった。 「それでも、子供は11人恵まれました。ラッキーなことに、私は健康なようです」 ユスフ氏のオフィスには、黄色いブルネイの国旗と並んで、原爆ドームの模型が置 かれている。 ブルネイはよく「東南アジアのクウェート」と呼ばれる。 この国には所得税がない。医療も教育も無料だ。豊富な原油と天然ガスが、この三重 県と同じくらいの小国に富をもたらしている。 1941年末、日本軍が北ボルネオを占領したのも、この石油が狙いであり、石油 がなければ、ユスフ氏が日本に留学することもなかっただろう。 そして50年後のいま、日本はブルネイの天然ガスの100%、原油の25%を買 っている。 天然ガスの卸元である「ブルネイLNG」は、三菱商事が25%の出資者だ。 東京ガス、大阪ガスはブルネイから天然ガスの供給を受けているから、日本の2大 都市の住民はブルネイのガスで食事を作ったり、暖を取ったりしているわけだ。 この契約を結んだ時のブルネイ首相が、誰あろうユスフ氏だ。 ユスフ氏は、こういう。 「日本は、私たちの自立を助けることができる唯一のアジア人です。それにもかか わらずビジネスだけの利益を図るなら、すぐに見破られ、愛想をつかされるでしょう。また軍隊が来るんじゃないか、とこの国の人は恐怖心を持っていますから」 マニラのレオカディオ・デアシス氏(71)は、自分の人生を語るとき「運命の糸」という言葉を何回も口にする。 デアシス氏は、日本軍と戦った、元フィリピン軍(当時は米軍の指揮下)兵士であ る。 デアシス氏が捕虜になったのは、「死の行進」で悪名高いバターン半島での戦闘。 釈放されて日本軍政下の警察隊で指導教官になったデアシス氏は、そこから「南方 特別留学生」に指名されたのである。 日本に行くことに、デアシス氏は憂鬱だった。 捕虜生活は苛酷だった。雨が降ると泥沼になる収容所には、マラリアが蔓延。食糧 も薬もない中、半年間で500人が死に、毎日戦友の死体を埋葬した。 食事の配給のときだ。米粒がこぼれた。毎日労働に駆り出され、とにかく腹が減っ ていた。拾おうとしたら、日本兵にいきなり「ビンタ」をくらった。 「あんなに冷酷で凶暴な日本人と生活など、したくない」 しかし、43年7月から1年3カ月の日本生活は、デアシス氏の心を徐々に解きほ ぐした。 日光、軽井沢、関西、名古屋。あちこちへ旅行もした。 「日本人もフィリピン人も、そんなに変わらない」 そう思うようになっていた。 44年4月29日の天長節(天皇誕生日)は思い出深い日だ。 代々木練兵場の観兵式で、初めて天皇を見た。白馬にまたがって兵を見送る天皇は、神ではなく普通の日本人だった。 その日の夕方には、バターン半島での日本軍司令官だった本間雅晴中将が寮を訪ね てきた。夕食を一緒に食べながら、「日本兵を何人殺したんだい」などと尋ねられたが、笑ってごまかした。 44年10月。米軍の猛反攻の中、フィリピンに帰国したデアシス氏は、しばらく 日本軍政下の政府で働いたあと、日本軍がマニラから撤退したのを機に、戦線を越え、米軍に復帰する。 が、「運命の糸」は、これだけでは終わらなかった。 1985年の天皇誕生日、デアシス氏は勲3等瑞宝章を受けるのである。 天皇の軍隊と戦った元兵士が、同じ天皇から勲章を受けたのだ。 「私はもう日本人を許しました」 デアシス氏は窓の外を見た。 「ご覧なさい。フィリピンの若者は、ソニーのラジオで目を覚まし、トヨタの車で ナショナルのエアコンの付いたオフィスへ出勤し、家ではサンヨーのテレビを見るの です。世界は変わりました」 マニラ撤退のどさくさの中、デアシス氏のいとこは、乳児だった子供を日本兵に銃 剣で刺殺された。妻の家の近所では、撤退の際に日本軍が司令部を爆破し、多くの住 民が巻き添えになって死んだ。 「かつての日本軍を忘れられないフィリピン人が、まだたくさんいることは、忘れ ないでいただきたい。巨大な工業国になった日本が、ある日突然に再武装するのでは ないか、と心の底で恐怖を持っているのです」 明治維新、敗戦、と日本人は突然変身してきた。しかも、全員が一斉に変わる。フ ィリピンの人には、そのあたりがいまだに不気味なのである。 マレーシアの首都クアラルンプール。高層ビルが立ち並ぶ、清潔な大都会である。 その首都の街を、国旗と同じ星と月のヘッドマークをつけた小型車「プロトン・サ ガ」が疾走している。 初の国産車だが、エンジンは三菱製。ヨーロッパにも輸出している。「2020年には先進国になる」と宣言し、工業化路線を突っ走るこの国を象徴する車だ。 7月16日、30万台目を出荷したときには、マハティール首相自らが工場に駆け つけ、祝った。 「あの車の錆止め加工も、私の会社でやっています」 高級車「ジャガー」のハンドルを握りながら、ラジャ・ダトゥ・ノン・チック・ビ ン・イサク氏(66)は、こともなげにいう。 「この団地も、私が建てました」 ノン・チック氏の指さす先には、ジャングルを切り開いて、一戸建て住宅が、視界 の限り並んでいる。 クアラルンプール近郊に、5万平方メートルの大邸宅を2つ構え、それぞれ運転手 付きのベンツが3台。 ノン・チック氏はスルタンの子孫。ラジャ(王)の称号通りの、王侯の生活である。 彼の富を支えるのは、日本との合弁企業だ。「YKK」「カネボウ」「古河電工」 「積水化学」などをパートナーに、10社。ノン・チック氏は、1万人以上の従業員 を抱え、年商4500万マレーシアドル(約27億円)に上る企業グループの会長な のである。 『日本人よ、ありがとう』 。数年前、ノン・チック氏が出版した半生記のタイトルは、社交辞令ばかりではなさ そうだ。 第2次世界大戦。マレーで、不滅の植民地支配者と信じられたイギリスが、自分と 同じアジア人の日本にあっという間に負かされたことは、ノン・チック少年の民族意 識を刺激せずにはいなかった。 43年6月から、東京と宮崎で学んだノン・チック氏は、戦後東京でマレー独立の ための資金集めを始める。インドネシア独立義勇軍に参加したのち、57年のマレー シア独立とともに帰国。63年に下院議員に当選、議長、上院議員を経て、83年に 引退。 マレーシアは多民族国家だ。先住のマレー人と、移民の中国系住民(華人)の比率 は45%対35%。華人は、経済界の実権を握っている。マレー人の反華人感情は、 根深い。 戦争中、マラヤは中国への資金援助の中心地。華人を中心にした「マラヤ人民抗日 軍」も、ゲリラ活動を展開していた。 日本軍は、これらの中国系住民に対する虐殺を繰り返す一方で、マレー人優遇政策 を取った。 ノン・チック氏が南方特別留学生に選ばれたのも、その一環である。反対に、これ だけ中国系住民の多いマレーから、中国人の南方特別留学生は1人もいない。 インドネシアで一番有名な日本人は「ドラえもん」かもしれない。夜のジャカルタ を歩きながら、そう思った。 「ドライモーン、どうだね」 ドラえもんの縫いぐるみを両手に抱え、売り子が寄ってくる。小さな子どもたちが、母親にねだっている。 そういえば、街では「カシムラ」とか「カスガ」とか、日本語ふうの看板が目立つ。「ニューオーサカ」という美容院もあった。 日本と取引があるのは、一種のステータスなのだそうだ。 43年6月に南方特別留学生として日本に留学したシャリフ・アディル・サガラ氏 (66)は、戦後に京大法学部を卒業した弁護士。日本、インドネシア双方の会社法 務に詳しいことで知られる。 JAL、兼松、伊藤忠。サガラ氏のビジネス・パートナーである。紛争が起これば、日本企業側の弁護に立つ。 「植民地支配者であるオランダを追い払った、驚異のアジア人」 サガラ氏が覚えている日本軍の第一印象だ。 「一番好きな日本語は『徳』です。戦争中の日本人が見せた団結心。愛国心。大和 魂。民族意識。私もそうなりたい、と思った」 今でもときどき、日本の秋が恋しくなる。広島の牡蠣、京都の松茸。東京で聴いた、バイオリンのコンサート。 サガラ氏にとって、日本は、甘い青春の思い出の地なのである。 だが、広島での被爆体験は、今もこの思い出を引き裂いている。 サガラ氏の左目の下まぶたは、今でも涙腺が切れたままだ。寮の自室で被爆したと き、窓ガラスの破片が目に入ったのである。 被爆直後から、全身に内出血の斑点ができ、髪の毛が抜けた。白血球が正常値の数 倍に跳ね上がった。半年たっても、頭の皮膚からガラスの粉が出てくる。 補償は一切受けていない。4年前、広島を再訪し、初めて被爆者手帳というものを 受け取った。 最近、好きだったたばこを止めた。坂道を歩くと、息が苦しい。今でもジャカルタ の自宅の壁に「ヒロシマ」と織り込んだ壁掛けを飾っている。 ヒロシマの記憶を語るとき、サガラ氏の左目から涙がこぼれた。 「『大東亜共栄圏』も、戦争に勝つための方便だったのかもしれない。よくわかり ませんが……。ただ、アジア人も殺されたが、日本人もたくさん殺された。戦争にな ったのは、日本だけの責任ではないような気がするのです」 苦難を経ても、日本に寄せる思いは変わらなかった。
●烏賀陽の取材メモ 「お若いですな。何歳ですか」 元留学生たちに会うたびに、尋ねられた。無理もない。彼らの息子よりさらに10 歳は若い、1963年生まれの私だったのだから。 元留学生はみな老いていた。 「日本の軍国主義は過ちだったのです。二度と繰り返さないためには、君のような若 い世代が努力しないといけません」 被爆者であるプギラン・ユスフ氏は、私の目をみつめながらこう言った。 実をいうと、出発前は気が重かった。日本人に対して、アジア人の取材相手が、ど んな恨みを抱いているかわからない、と思ったからだ。だから、マレー人元留学生の 口から「今こそ、日本は大東亜共栄圏のリーダーになるべきです」などという言葉が飛び出したときには、たまげた。 「いい経験でした」「精神を鍛えられました」 つらかったはずの戦時中の日本での生活についても、悪しざまにいう人はいない。 日本人記者である私に、気を使っているのがよく分かった。 元留学生たちは、祖国の独立を支えた、愛国心の強い世代である。国がこれからも 経済的に発展していくために、日本の技術力や資金力の協力が必要なことは、知り尽 くしている。 だからこそ、「かつて、アジア人は助け合って発展しよう、といったではないか。今こそ、大東 亜共栄圏の約束を実行してくれ」という思いを日本に抱く。 彼らは、アジア人留学生が、日本でアパートになかなか入れないことを知っている。 最近の日本人はアジアに冷たい、とうすうす感じているのだ。 「50年前、日本人はアジア人になろうとした。だから私たちは親日なのです。だ が、戦後の日本は西洋人になろうとしている。最近留学した若者は、みんな反日にな って帰ってくる」 (AERA 91.8.20) 【追記】 ● 91年に取材した元南方特別留学生のうち、ラジャ・ノンチック氏とサガラ氏は鬼籍に入られた。 ●あの取材から7年が経って読み返してみると、当時とは少し違う感想を持ったので記しておく。 元留学生たちが留学時代のことを悪し様に言わないのは、日本人である私に気を遣ったわけではなく、本当に悪い思い出とは思っていなかったのだと思う。 20歳前後の青春時代を老齢になって振り返れば、それはことごとく甘く、美しいのではないか。戦時下、飢えと監視に悩まされながらの毎日であっても、後になって振り返れば嫌な部分は記憶から抜け落ち、甘美な思い出だけが残る。記憶としての青春というのはそんなものだ。 (98.9.11) |
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