![]() 東条英機首相と談笑す南方特別留学生たち |
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日本軍の旗色が悪くなった1943年から、当時の大東亜省は東南アジア各国の有力者の子息たちを「南方特別留学生」として日本に連れて来た。軍部の意図は日本統治の協力者に仕立てることだった。 |
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サツマイモを混ぜた「芋パン」という代用食が登場し、英語が禁止されて野球のス トライクは「よし」に、「サンデー毎日」は「週刊毎日」になり、モンペ・国民服の 着用が定められ、空襲に備えて上野動物園の猛獣が殺され、イタリアが降伏し、学生 も徴兵され、連合艦隊の山本五十六司令長官が米軍に撃墜されて死んだ。 連合軍の反攻が本格化し、大日本帝国が破滅への秒読み段階に入った。そんな時期 である。 その昭和18年の6月30日午前9時21分。東京駅のホームは出迎えの役人、新 聞記者が詰めかけていた。 列車から、カーキ色の国民服を着た留学生たちが飛び出してきた。たちまち荷物を 降ろし、整列すると、日本語で点呼を取り始めた。 「××班総員○名、異常ありませんっ」 あまりに整然とした行動と日本語の上手さに、誰もがあっけにとられた。 受け入れ団体である国際学友会の金沢謹(かなざわ・ひとし)氏(故人)は、その 時の印象をこう記している。 「(彼等の眼は)希望の輝きと云うようなものはなく、何かおずおずと物怖じして いるように見えるではないか? 見かけは元気で活発そうに見えるが笑いと云うもの がないではないか? どう見てもこれは軍隊そのものだ」 引率の少佐が、金沢氏の肩をたたいた。 「よく躾てあるでしょう。この調子を崩さずに頼みますよ」 来日に先立って、留学生たちはマニラやシンガポールで、日本語、日本史、武道か ら、歌、箸の使い方に至るまで、軍にたたき込まれていたのである。 「南方特別留学生」は、昭和18年に来日した第1期生110人と、19年の2期 生の101人がいる。最年少は15歳。年長でも20歳そこそこだった。 どちらも、東京の国際学友会日本語学校で日本語を1年弱勉強したあと、全国の学 校へ散って行った。南国育ちで寒さが苦手な留学生のため、行き先は九州や中国地方 の学校が選ばれた。 もともと、軍部の肝煎りで始まった事業である。 東南アジアの占領地での反日感情が想像以上に強く、ひねり出した懐柔策である。 植民地経営の橋渡しになる指導者を育てる、という目的も、もちろんあった。 当時は「大東亜省」という省庁があって、受け入れに当たった。満州、中国を含め た「大東亜共栄圏」の政治経済を、一括処理する役所である。開戦の翌年の1942 年、東条内閣が外務省の反対を押し切って設立した。 軍部に指名された顔触れを知った留学生たちは、もうひとつの自分たちの役割に気 づいていた。 マラヤの王族の息子。軍政下の現地政府高官の子弟。当時のラウレル・フィリピン 大統領の息子で、現在のラウレル副大統領の兄弟にあたるマリアノ・ラウレル氏の顔 もある。 要するに「人質」だった。 日本側の教育方針を一言でいえば、アジアの少年たちを日本人に同化させてしまう ことだった。 当初は「南方文化工作特別指導者育成事業」という名称が予定されていたが、あま りに露骨だ、というので「南方特別留学生」に変更された、という逸話が残っている。 軍は、少年たちを集めると、まず軍隊式の丸刈りにして国民服を着せた。日の丸に 敬礼、君が代を歌わせた。 東京に着くと、まず宮城遥拝(きゅうじょうようはい=皇居に向かって最敬礼する こと)をした。寮では毎朝、点呼・体操のあと「大東亜戦争必勝」の祈願である。 敬虔なカトリック、イスラム教徒が多かった留学生たちには、これは一大事だった はずだ。 しかし、留学生たちのプライドは高かった。 「(皇居に)頭は下げても、心の中では決して下げなかった」 フィリピンのレオカディオ・デアシス氏(71)はそう言い切る。 インドネシア出身の留学生には、ジャワ島出身者とスマトラ島出身者が別々の班に 編成されたことが不満だった。 43年11月、明治神宮国民錬成大会に参加したインドネシアの留学生たちは、行 進が東条首相の前にさしかかると、「ジャワ班」「マライ・スマトラ班」のプラカー ドを、投げ捨ててしまった。 そんな空気を察してか、陸軍省は留学生たちを厳重に監視した。 寮の玄関には「面会謝絶」の大看板。外出は許可制。留学生が時間外に渋谷を歩い ていると、たちまち陸軍省から「許可はあるのか」と問い合わせが入った。憲兵隊の 通報、と後から分かった。 手紙は開封せよとの通達も寮に来ていた。 留学生は日本の食事の貧しさには辟易したようだ。 「混ぜご飯は、米よりもコーリャンやおからの方が多いくらい。『戦勝みそ』『戦 勝もち』といえば聞こえはいいが、みかんの皮のみそ、草もちでした」 インドネシアのアリフィン・ベイ氏は回想する。 留学生にとって幸いだったのは、良心的な日本人が身近にいたことだ。 例えば、上遠野寛子(かどの・ひろこ)さん(72)。 聖心女子学院外国人部を卒業し、日本語教師の資格を持っていた上遠野さんは、留 学生には先生以上の存在だった。 初めて会ったとき、留学生たちは、固く心を閉ざしていた。 「お姉さんと呼んでください」 上遠野さんはこう声をかけ、そして48年後の今も、元留学生に「お姉さん」と呼 ばれている。 病気になれば看病し、取れたボタンをつける。留学生はギターやバイオリンを弾き、 一緒に歌を歌った。高校生くらいの留学生たちと、24歳の「お姉さん」の生活は、 にぎやかだった。 電車でお年寄りに席を譲った話。女の子をデートに誘ったのに、断られた話。 家族を離れた留学生たちには、そんなたわいのない話ができる相手こそが、ありが たかった。 「あんな時代でも、あの子たちは本当に明るかった。つぶしてもはね返す、若さだ ったのだと思います」 (AERA 91.8.20) |
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