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もう日本では二度と働きたくない。日本料理を食べることさえ嫌になった。三年半の東京での生活を終えてアメリカに戻ったティム・ウオーカー(39)はいま、疲れ果てた様子で日本企業での仕事を振り返っている。
「日本は今でも大好きなんです。でも、もうバーン・アウトしてしまった。最後の方は早く日本を出たいとばかり考えていた」
ウオーカーの言葉がショッキングなのは他でもない。日本の言葉や文化を何も知らずに飛び込んだ米国人ならいざしらず、彼は二十五年間も日本と関わり続けている「知日派」のインテリビジネスマンだからだ。
日本との出あいは十五歳の夏に遡る。故郷の西海岸の街に、名古屋からホームステイ学生が三十人やって来た。そこで出会った日本人教師の知己を得て、夏になると日本で過ごす生活が始まる。大学卒業までに、数カ月単位の日本滞在は三回を数えた。
経験を深めるため、意を決して仕事を辞め、日本での生活を始めたのは二十八歳の時だ。馴染みの深い名古屋で英語を教えながら三年を過ごした。米国に戻ったあと、九二年には日本研究の名門コロンビア大学の修士課程に合格する。ローンを組んで二年分約四万ドルの学費を払いながら、日米の経済問題を専攻した。名古屋で働いていた時に出会った日本人女性と結婚したのも、ちょうどコロンビアに入学したころだ。
そんなウオーカーに、何があったのだろう。
○仕事なく出社が苦痛に
修士号を無事取得したあと故郷の街で就職したのは、住宅部品の輸出業者だった。彼の故郷は米国有数の林業の街である。日本の住宅事情をよく知り、大学院でも日本の住宅産業の歴史を研究した彼には、理想的な仕事に思えた。
不幸は九五年に始まる。輸出先である東京の住宅建設会社にアドバイザーとして派遣された時だ。
会社に行って仰天した。バブル絶頂期、大手電子機器メーカーが事業を拡張してできたその子会社は、不動産ブームが終わって受注がほとんどない。月に一件あればいい方だ。よく見ると、五十人ほどいる同僚はみんなが机に座って雑誌や新聞を読んでいる。彼にも何も仕事がない。それでもめげずに毎日出社するうちに、同僚の目が険しいことに気づいた。
四カ月後、日本人上司が彼を会議室に呼び出した。
「『みんなあいつは何のためにいるんだ、って言っている。一体何の仕事がしたいんだ』って言うんです。僕の仕事を決めるのが彼の仕事じゃないですか。屈辱的な経験だった」
派遣先の日本企業は、ウオーカーの会社との契約を切りたがっていることが分かってきた。毎日オフィスで住宅建設のマニュアルや専門書を読んで勉強に努めたが、出社するのが苦痛でならなかった。
ようやく解放されたのは一年後。次に派遣された取引先の企業は、仕事があったからまだ良かった。問題は仕事がありすぎたことだ。
朝は八時に出社して夜八時に帰宅。昼食も、夜の一杯も同僚と。月二回は土曜も出勤。このへんのオフィスライフはよく知っていたからいい。理解できなかったのは、同僚がだらだらとオフィスに残っていることだった。効率よくやれば六時には家族の元に帰ることができるのに、である。
もうひとつ泣かされたのは、現場の作業員がウオーカーの会社から輸入した住宅をマニュアル通りに組み立てないことだった。いくら説明しても、これまで通りのやり方でやる、の一点張り。設計通りに組み立てないから当然故障が出る。客のクレーム処理に追われる羽目に陥った。
米国の自動車産業は日本のやり方を学んで蘇生したのに。能率の良い作業方法があれば、日本も米国も関係ないじゃないか。不可解なことだらけだった。
米国本社への復帰希望を出し続け、やっと戻ったはいいが、今度は日本の不況で住宅輸出が激減。三十数人いた本社員が十数人に減らされてしまった。日本関係の仕事を探そうにも、日本本国が不況でほとんど求人がない。
ウオーカーはめったに泣き言を言わないタフな人物だ。が、すったもんだが積み重なるうちにすっかりうんざりしてしまったのは事実のようだ。
「もっと経済の知識を生かした職を探そうと思っているんです。もう日本関係の仕事はあきらめないといけないかもしれない」
彼はいま、西海岸の故郷の街で、妻、まもなく二歳になる娘と一緒に暮らしている。彼ほど日本が好きな米国人もいないのに、と奥さんは残念そうだ。
○不況で翻訳注文が激減
長く日本に関わり、深い知識や情熱があるにもかかわらず日本関係のビジネスを捨てる若い米国人はウオーカー一人ではない。
原因は大きく分けて二つある。まず、日本の不況のせいで対日ビジネスが激減したこと。次に、彼らが働いた日本企業が外国人スタッフに無理解だったことだ。
「コンピューター言語の中には、もうすたれて使われなくなったものもありますよね? 僕の日本の知識も同じなのかもしれない。もう日本のことは忘れたほうがいいのかもしれませんね」
そう言うスティーブ・コーエン(28)の場合、原因ははっきりしている。日本の不況で、技術関係の翻訳が激減したからだ。
彼も、ウオーカーと同じようにトップクラスの日本通インテリだ。初めて日本を訪れたのは十八歳の時。日本語教育で名高いコーネル大学で日本学を勉強したあと、九一年には早稲田大学に一年留学。日本の歴史、政治・経済、文化と、たっぷり学んだ。九六年まで三年間、翻訳や英語教師をしながら東京で暮らした経験もある。
現在の仕事は、日本企業の文書を英語に翻訳することだ。例えば、不動産の契約書。特許関係の法律文書。銀行の内部文書。深い専門知識を要求される分野ばかりだ。
ところが、最近になって発注が激減した。九七年には月に最高二万ドルの収入があったのに、今では三千ドルの月さえある。生活費の高いニューヨークで暮らすのは大変だ。
「収入が減ると、妻との緊張の原因にもなりますしね」
そう言って苦笑するコーエンも、コーネル時代に知り合った日本人女性と結婚している。
「途方に暮れているんです。これまでの経験は無駄にしたくないんですが、日本の知識に頼っていると事態は悪くなるばかりで……。コンピュータープログラムを勉強するとか、まったく違った方向も考えています」
米国企業は日本での新規ビジネス開拓に興味を失いつつある、と彼は言う。
○日本語学ぶ学生も減る
こんな逸話がある。あるソフトウエア会社のコンサルタントをしていた時の話だ。店舗設計に使うシミュレーションソフトに、日本のアパレル会社が興味を示した。上司と共に東京に飛び、プレゼンすること十数回。が、さんざん待たされた末に破談になった。興味深いのはその後の米国側の反応だ。
「『どうせ日本は不況なんだろ? もうキャンセルしよう』でおしまいなんです。探せば他にもクライアントはいたかもしれないのに。本国での景気がよくて忙しいから日本に興味が薄らいでいる」
結局コーエンはその会社を去った。その後、あまり明るい話はない。助かっているのは、十七歳で世界奇術大会で優勝したという特技を生かして、プロのマジシャンとしても収入があるからだ。
かつては、日本語が堪能といえば面接試験で羨望と尊敬の視線を集め、職には困らなかった。あまりの変わりようにコーエンは嘆息している。
日本語を勉強しようという学生は減っている。日本研究の名門のひとつコロンビア大学の例を挙げる。日本の経済力が全盛だった九〇年ごろ、約二百九十人いた学生数は、今は約百九十人。中国語に追い抜かれた。米国人は自分のキャリアプランに沿って外国語を選ぶため、変動が大きいのだ。
ちなみに、ウオーカーやコーエンのように、日本語で新聞・雑誌を読み、仕事に不自由のないレベルにまで生き残るのは、百九十人のうち五人前後しかいない。
「日本語に熟達しながら、日本で働いたあと日本関連の仕事を捨てる人が確かに増えている。経験者の話は口コミで学生にすぐ広まるから、後に続く学生の意欲に影響しているのではないかと思う」
同大学東アジア言語・文化部日本語プログラムディレクターのケイコ・シェヴレーはそう話す。
知日派インテリの日本離れは、さらに若い世代にも及んでいる。
「今の仕事ですか? 日本との関わりはゼロですね」
そう言うザック・マティソン(25)の場合、日本への愛情がマンガやテレビゲームから始まったのが若い世代の米国人らしい。「ドラゴンボール」は全巻持っている。「スラムダンク」や「ゲゲゲの鬼太郎」が大好きだ。相撲は貴乃花のファンである。相撲は並の日本人より詳しいくらいだ。
きっかけは、高校生の時だった。故郷のミシガン州の農村の学校に、日本から留学生がやって来た。誘われて彼の故郷の三重県に旅するうちに、日本の絵画やアニメ、クロサワの映画に心を奪われた。
ミシガン州立大学に入ったあと、大学が提携していた滋賀県の日本語学校へ一年半留学した。続いて、やはり日本研究で名高いハワイ大学に移る。新聞・雑誌を日本語で読み、書道や古文も勉強するという日本漬けの日々。漢字辞典の編集にも関わった。
○日本的人間関係も障害
ひどい目にあったのは、卒業後に日本語の能力を買われてニューヨークで日本人ガラス工芸家のアシスタントの仕事に就いた時だ。その男は英語がまったくダメ。朝から晩まで通訳としてつきっきり。朝七時にはスタジオに入り、ガラス窯の温度を調整し工具を用意する。四〇度近いスタジオで、夜九時まで続く汗みどろの作業にへとへとになった。
マティソン自身もガラス工芸家である。仕事の契約は午後五時までだから、その後は自分の作品を作りたい。が、日本人工芸家は日本の徒弟制度そのままの服従関係を要求した。
だんだん雰囲気が険悪になった数週間後、彼は他の研修生の面前で罵倒され、給料も払われないまま一方的にクビにされた。
「センパイ・コウハイみたいな日本企業のヒエラルキー制度にはついていけないと思った。若い人間は子供みたいに扱われるでしょ? 米国企業はそうはしない」
それでもめげずに日本企業の職を探したが、仕事といえば、観光客相手のバスの運転手とか土産物店の売り子とかばかり。面接試験で、大学時代に編纂した漢字辞典を見せて能力をアピールするのだが、評価されない。
「日本語の学位を持っていると、米国人はその能力を評価してくれます。日本企業は学歴とか年齢とかばかり注目して、個人の能力や個性を見ないような気がする」
いま、生産管理のソフトウエア会社で働いている。正直言って退屈です、とマティソンは苦笑した。
時々、日本映画をレンタルして見る。今でも字幕なしで内容が理解できる。お好み焼きやカレーライスを自分で作ることもある。三重県のホストファミリーのことを懐かしく思い出す。カブトムシを捕ったりコタツでミカンを食べたり、良い思い出は数多い。
こうして、本来、日本と米国の懸け橋になるはずの貴重な人材が次々に力尽きていく。
(AERA 1999年04月05日)
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