![]() イケダ一家。前列左からラリー、その娘ステファニー、妻マリアン。長女ルイーズ。後列左からトマス、アキコ夫妻。三女スージー、次女ジェニファーと夫のスキップ。 |
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自伝ルポ・アメリカのいとこたち 伯母2人が米国に移住したため、筆者には日系アメリカ人のいとこが6人いる。彼らとの出会いを通じて、家族や祖国の意味や、「自分が何者なのか」を考えた「自伝ルポ」です。 |
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僕の家族は変わっている。「日系アメリカ人」がいるのなら、僕は「アメリカ系日本人」なのかもしれない、とさえ思う。 僕には、父方の従兄弟が六人いる。その六人が六人ともアメリカで生まれ育ったアメリカ市民だ。そのうちの一人が、一昨年の九月に結婚した。僕は今、その結婚披露パーティーにいる。一九九二年九月十二日、上曜日の夕方の話である。 フロアの中央で、白いウエディングドレスの花嫁と黒服の花婿が踊っている。手を取り合って、コマのようにくるくる回る。 花嫁のベールが、白いパラソルのようにくるくる回っている。周囲の男女もくるくる踊る。曲の途中で、花嫁の父親が花婿と交代した。花婿よりはゆっくりしたテンポだが、痩身のオヤジざんも負けじとくるくるやり出した。僕は、テーブルに座ったままこの光景を眺めている。曲が終わった。花嫁と父親が顔を見合わせてほほ笑む。歓声と拍手、口笛が鳴りやまない。父規も花嫁も照れたところが少しもない。それどころか、にこにこしてみんなに手なんか振っているではないか。 アメリカを訪ねるのは三回目だが、住むのはこれが初めてだ。この国の結婚式というのも、初めて見た。式は近くの教会で、一時間ほどで簡素に終わった。続いて近くの小さなレストランでのパーティーに移った。 「ヒロミチ!」 花嫁が僕の席へやってきた。 「来てくれてありがとう。日本のファミリーが来てくれて、本当にうれしいわ。さ、来て!」 会話はすべて英語である。この花嫁が、僕の従姉妹スージー・イケダ。 26歳。アメリカ生まれのアメリカ育ち、生粋のヤンキー・ガールだ。名門ブラウン大で化学工学を専攻した秀才である。現在は、コンピューターシステムのコンサルタントとして働いている。大学時代からの恋人がめでたくビジネス・スクールを卒業の予定となり、結婚と相成った。 「こちら、ヒロミチ。日本から来た私の従兄弟なのよ」 他の賓客に紹介してもらう。みな一様に「ほお、日本からわざわざ」と驚く。日本の一族からは僕一人が来ているから、持別ゲスト扱いだ。晴れがましい。 軽やかなステッブを踏んでいたオヤジさんは、トマス・イケダ。日系二世のアメリカ人だ。ついこの間、エンジニアとして30年間勤めた会社を引退したばかりだ。 伯母さんは?いた。テーブルからテーブルへと歩き同って、お祝いに来た客にお礼の言葉をかけて回っている。外観はどう見ても「日本のコおふくろさん」だが、言葉は流暢な英語だ。彼女が、アキコ・イケダ。僕の父の姉である。戦後まもなくトマス伯父と結婚して米国に帰化した。それ以来、ずっとアメリカに住んでいる。 僕がスージーの結婚式の時期にアメリカにいたのは偶然である。同じ年の七月、僕は勤めていた新間社を二年間休職して、アメリカに来ていた。三年越しの計画が実り、コロンビア大の大字院に留学することになったのだ。大学のあるニューョークに引っ越すと、伯母夫妻の住むコネティカット州ウェストポートは電車で一時間しかかからないことが分かった。 伯母夫妻は、もう三十年以上この街に住んでいる。長男ラリー、長女ルイーズ、次女ジェニファー、そして今日の花嫁である三女スージーの四人の子供は、この街で育ち、この街の公立学校で教育を受けた。 ルイーズは僕の隣に座っている。数時間前の結婚式で、生まれて初めて会ったぱかりだ。握手したとき、こちらが思い切りの笑顔を作ったら、彼女も目がなくなってしまうくらいの笑顔でニコーッと笑っている。自分で言うのもへンだが、あ、オレに似ている、と思った。三十五歳。数年前に夫と離婚して、独身。テキサス州ダラスで、医療用コンピューターのコンサルタントとして働くキャリアウーマンだ。離婚後も、そのままテキサスに住んでいる。隣の席のボーイフレンドを紹介してくれる。日本でいう「出戻り」とかコバツイチ」なんて暗さや後ろめたさは、みじんも感じられない。 「ねえヒロミチ、オジイサンとオバアサン、元気にしてる?」 「オジイサン」とコオバアサン」の部分だけが日本語だ。思い出した。何年か前彼女は、生まれて初めて日本を訪ねたことがある。京都に住むわれわれの祖父母と、高知に残るイケダ家の親戚を訪ねるためだ。そのとき僕は、仕事が忙しくて会いにいくことができなかった。 「また来てほしい、って二人とも言ってたよ」 ルイーズは黙って考えている。 「そうね。でも私、あんまり日本って好きになれなかったの」 えっ、どうして? 「街で、みんな私に日本語で話しかけてくるのよ。でも私、日本語なんて分からないから、まごついているじやない。するととたんに、こいつバカかっていう露骨な目で見るのよ!」 彼女の声が次第に大きくなり、そしてテーブルを平手でどん、と打った。 「私は、アメリカ人なのよ!」 僕は、アイルランド系の友人夫妻が、生まれて初めてアイルランドを旅行したときの話を思い出していた。 彼らは、アイルランドの人間、自然や文化がいかに優しくて美しく、情緒豊かであるか、アルバムの写真や土産物を手に取って、うっとりと僕に説いてくれるのだった。 僕の米国人の知人の多くが、祖先が生まれた国を一生に一度は訪ねている。イタリア系ならイタリア。中国系なら中国や台湾。ユダヤ系はイスラエル。それは、自分のアイデンティティ−を探す巡礼のような旅だ。そして僕の間く限り、白分の「故郷」に深い誇りと愛着を抱いて帰ってくる。 ところが、ルイーズの「故郷」であるはずの日本は、日本人に見えるのに日本語を解さない彼女を瑚った。彼女は傷つき、怒っている。 「アイ,アム,ソーリー」 謝ったのではない。自分のルーツを嫌わざるをえない彼女が気の毒だった。そして、日本人の偏狭さに、ひどく腹が立った。 「それにしても」 ルイーズは話題を変えた。 「あなたって、兄のラリーにそっくりね。初対面って気がしないわ」 また言われた。ラリーは僕に瓜二つなのだ。子供のころから、ずっと両親にその話は聞かされていたし、日本に送られてきた写真を見ても、自分でもなるほどと思った。いったい、どんな人なんだろう。ずっと、彼に会ってみたかった。 数時間前、彼の姿を遠くから見たとき、それは不思議な体験だった。体を離れた魂が自分の体を見ている、というのはこんな感じなんだろうな、と思った。面長の顔に、線を引いたような目。その上に乗った眼鏡。何より驚いたのは、切りそろえたように背丈が同じなことだ。肉づきも似ていて、きっと体重は六三キロなんだろうなと分かったりする。 「やあラリー、なんだか初めて会ったという気がしませんね」 ダンスからテーブルに戻った彼のところへ歩み寄った。 目いっばいの笑顔で。 ラリーが顔を上げ、僕をしげしげと見た。しかし、彼は笑わなかった。凍りついたように無表情だった。 「うん、そうだね」 それだけ言って、幼い娘をあやし始めた。会話はそこで終わった。ラリーの冷淡さは僕を落胆させた。なぜなのか、理解できなかった。 外は雨が降っていた。 ニユーヨークへと戻るハイウエーをたどっている。 「ラリーって、愛想よくないよな」 ハンドルを握るジョンがつぶやく。 このジョン・クレイグも、僕の従兄弟だ。父のもう一人の姉、テルコの長男。テルコ伯母も、アキコ伯母と同じように、戦後まもなく米国人と結婚して、米国に掃化したのだ。ジョンは四十歳。ウォール街で働く債券アナリストだ。 「ヒロミチ、ラリーが西海岸に引っ越した理由を知っているかい」 ジョンはひとり、話し続ける。 「彼は目立つのが嫌いなんだよ」 ラリーは小児科医である。ずっと東海岸で育ったのに、メディカル・スクールを卒業すると、すぐに西海岸のシアトルに引っ越した。今はロサンゼルスで開業している。 東海岸では、今でもアジア系市民の比率が少ない。ラリーは、小学校時代から抜群に成績が良かった。良い意味でも悪い意味でも、これは周囲の視線を集めた。 「ここでは目立ちすぎてイヤだ」 そう言い残して故郷を離れた彼は、アジア系が多い西海岸で、ようやく心の平穏を得た。それがジョンの説明だった。 そういうジョンも、東海岸のボストンの育ちだ。彼も、ラリーと同じ思いをしたことがあるのだろうか。 ジョンの父親は白人である。髪や瞳が黒い以外は、ジョンの見かけはほぽ白人だ。本人がそう言わなければ、日本人とのハーフとは分からない。そういえば、ジョンの妻エリザベスは白人だ。一方、ラリーの妻マリアンは中国系。同じ東洋系だ。 同じように母親が日本人でも、名字も外観も日本人そのもののイケダ家の従兄弟たちと、父親が白人であるクレイグ家の従兄弟たちとは、境遇がずいぶん違うようだ。 ある疑間が、わいてきた。 「ふだん、クレイグ家とイケダ家とはよく一緒に会ったりするのかい」 「ノー。今日は特別だね」 アメリカにいれば「東洋人」として好奇の目を浴び、日本に行けばガイジン扱い。イケダ家の従兄弟たちは、僕には想像もつかない苦々しい思いをたくさん経験しているにちがいない。 霧雨の向こう側に、マンハッタンの街の灯が見えてきた。 92年十月三十日は、晴れて乾いた金曜日だった。今度は、イケダ家の自宅にいる。 「ハロウィーンのごちそうを作るから、泊まりにいらっしやい」 アキコ佑母から電話がかかってきたのである。 「勉強、たいへんでしょ。たまには骨沐めしなさいよ」 ハロウィーンや感謝祭、クリスマスが近づくと伯母はきまって電話をくれ、僕をニューヨークの狭くて汚いアートから引っ張りだしてくれる。 「ヒロミチ!勉強はどう?」 新婚ほやほやのスージー夫妻、ジュニファー夫妻か次々に到着する。 僕のために、ポストンから車をニ時間飛はして来たという。今日は、テキサスのルイーズは3000キロ、ロサンゼルスのラリーは五千キロの彼方である。 「じやあ、そろそろステーキでも焼きましょうか」 カウチに寝そべってテレビのフットボール中継を見ていたトマス伯父さんが、むっくり起き上がった。 たまにしか訪れないのに、イケダ家に来ると、懐かしい思いがする。 毎年クリスマスになると、この家の前で写した一家の写真が、僕の京都の家に送られてきた。いつも英語の手紙が添えられていた。 あの、赤と青の帯がついた航空便の封筒。「アメリカ」とかいう見知らぬ世界から届く、英語とかいう不思議な言葉の手紙。何より不思議だったのは、写真の中でクリスマスツリーを背にほほ笑む子供たちだった。その子供たちは、みんな血のつながった親戚だと親はいった。そのわりに、ラリーとかジェニファーとか、名前がへンなのはなぜだろう。 この世のどこかに、日本と違う世界がある。あれが、僕が「外国」というものを意識の中に捕らえた最初の体験だったと思う。 高校生のときは、親にプレッシャーをかけられた。従兄弟たちが優秀で、ハーバードとかエールだとか、とてつもない世界的名門校にどんどん先に合格したからだ。 「アメリカの従兄弟たちに負けないように、しっかり勉強しなさい」 親のそんな言葉は、まだ鼓膜の隅にこびりついている。 いつしか、白分も日本を出て外国で暮らすのが当然だ、と思うようになっていた。日本にいるだけでは、いつまでも半人前のままだ。そんな漠然とした思いが、僕の中に芽生えていた。そしていま、僕は従兄弟たちの国アメリカで大字院生として暮らしている。 「いつか、従兄弟たちの所へ行きたい」 そんな思いが意識の下にあって、私をここまで衝き動かしてきたのかもしれない。 「ヒロミチさん、肉が焼けましたよ」 伯父の声で我に返った。 テーブルを囲む。食前の祈りである。スージーが祈る。「今日のこの糧を感謝します。そして、遠くにいた家族がこうして席を同しくできたことを感謝します」 家族。その言葉が、誇らしかった。 食卓のジョークのつもりで「アメリカの従兄弟に負けるな」と、親が僕を勉強させようとプレッシャーをかけた話を持ち出してみた。ジェニファーとスージーが、顔を見合わせた。そして、ゲラゲラ声を上げて笑い出した。ジエニフアーは、言った。 「本当?でもねヒロミチ、私たちも、あなたがすごく優秀だっていう話をずっと親から聞かされていたのよ。親って、考えることは同じね!」 僕も笑った。肩がすっと軽くなった。異国人の従兄弟の前で本当にくつろげるようになったのは、この瞬間からだったような気がする。 食事は楽しく終わった。 「ヒロミチさん、ちょっとおもしろいものを見せてあげましょう」 くつろいでいると、伯母が高さ五十センチはありそうなアルバムの束を抱えてきた。 その一冊を開くと、それは結婚式の記念写真なのだった。白いウエディングドレスを着た花嫁と、黒い礼服の花婿が教会の中で並んでいる。どこかで見た顔だ。アキコ伯母とトマス伯父ではないか。 六十六歳の伯母は、ほほほと笑う。 「そう、若いころの写真だから分からないでしょ」 アキコ・ウガヤとトマス・イケダがニューヨークで結婚式を挙げたのは、一九五四年十二月四日である。 当時アキコは、ニューョークのフォーダム大で社会学を学ぶ大学院生。トマスはコロンビア大電子工字科の修士課程を終え、空軍のレーダーを開発する民間会社のエンジニアとしてスタートを切ったばかりだった。 もう少しさかのぽって説明する。戦前、アキコの父・恒正は、当時外国為替を扱う唯一の銀行・横浜正金銀行(現在の東京銀行)の行員だった。この父親の転勤のために、烏賀陽一家は文字どおり世界各地を転々とする。 アキコは一九二六年に京都市で生まれている。が、ご一歳の時にフィリピンのマニラに引っ越し、四年をここで過ごす。この間に、妹テルコと弟正弘が生まれた。この正弘が、僕の父親だ。続いて、ロサンゼルスに三年半。ニューヨークに四年。日米関係の雲行きが怪しくなってきた一九四○年には、東京へ戻ってくる。 が、軍関係の仕事に携わるようになっていた恒正は四二年、今度は北京に転勤。翌年には南京に移る。アキコは、ここでフランス人が経営するカトリック系の高校を卒業している。が、中国大陸で日本軍の形勢が悪化の一途をたどった四四年、恒正は一人南京に残り、妻貞子と3人の子供たちを日本へ送り帰した。そして敗戦。 今でいう「帰国子女」だった烏賀陽家の子供たちにとって、日本は居心地のいい場所ではなかったらしい。中学のテストで「飛行機を英語で何というか」との間いに「airplane」と答える。すると、教師は「そりやアメリカ英語だ。イギリス英語が正しいんだ」と大きなペケを付けて「aeroplane」に直す。僕の父・正弘は、よくこんな話をしては怒っていた。アキコは、大学教育をアメリカで受けることを決意する。彼女が再びアメリカの地を踏んだのは五○年。彼女は24歳になっていた。二年後には大学院進学のためニューヨークに移り、トマスと出会う。 妹のテルコは、京都大学で日本史を学んでいたアメリカ人青年アルバート・クレイグと結婚して一足先に渡米していた。姉弟の中で、正弘だけが日本に残り、日本の大学を卒業して日本で暮らす決意をする。 僕が日本を「祖国」とすることになったのは、ほんの偶然だったのではなか。伯母の思い出話を間いていたら、そんな思いがわき上がってきた。 一九八四年になるまで、アキコは一度も日本に里帰りしていない。 「もう、日本語も怪しくなってきたわね。私のは幼稚園児の日本語よ」 夫や子供たちとはもちろん、僕とも英語で話す。そのほうが楽だという。伯母が開いたそのアルバムは、イケダ家の歴史記録なのだった。 別のアルバムの最初のページには、すっかり黄ばんだ一家そろっての記念写真が張ってある。日に焼けた、たくましい体つきの男性を、その奥さんらしい女性と、五人の兄弟姉妹が囲む。男性は、ジャケットと白いソフト帽で決めている。が、小さな男の子を抱く手は、ごつごつ、ざらざらした農民の手である。 「そのオヤジに抱かれている男の子が、僕ですよ」 68歳になるトマス伯父が写真を指さして言った。写真の伯父は四歳だという。すると、この写真は1928年に撮影されたことになる。 イケダ家の歴史は、典型的な日系移氏の歴史である。トマスの父親は、高知県の出身。十九世紀終わりごろ、農場労働者としてメキシコに渡航したが、一九○四年に貨車に隠れてアメリカに密入国。今でいう不法労働者だったのだ。彼が働いたのは、カリフォルニアの農場。トマトやイチゴを栽培していた。が、イケダー家は、一九三○年代の初めには、日本へ帰ってしまう。最初から出稼ぎのつもりだったのか、そのころカリフォルニアで荒れ狂った日系移氏排斥運動のせいなのか、詳しいことは僕は知らない。トマスも家族と一緒に高知県に戻り、旧制三高を出て東京工業大字に進む。が、結局アキコと同じように、トマスももう一度アメリカに行き、アメリカ人としての人生を選ぶ。1949年に再度渡米。父と同じようにカリフォルニアの農場で働いて学費を稼ぐと、コロンビア大学の大学院へ進学するのだ。 一九八七年、トマスば日本へ約四十年ぶりに里帰りしている。三高の同窓会に出席し、高知県の親類を訪ねるのが目的だった。 どうして、そんなに長いあいだ里帰りをしなかったのか。僕は尋ねずにはいられなかった。 伯父は、じろりと私を見た。 「日本だって?ふん!あそこには、もう何にもない」 温厚な伯父のざらついた態度に、僕はぎょっとした。 「もうあそこには、私が愛した日本はないんです」 僕の狼狽を見て取った伯父は、そう言い直して、隣の部屋に姿を消した。そこから聞こえてきたのは、懐かしい日本の唱歌だった。 「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 兎追いしかの山 夢は今もめぐりて 忘れ難き故郷」 鈴のような、子供たちの含唱だった。 「トマスは、夜になると日本の昔の歌をステレオで間いているのよ」 伯母が言った。四十年ぶりの母国は、どうやら伯父に失望しかもたらさなかったらしい。 「トマスさん」 僕は立ち上がって隣室をのぞいた。だが、すべてを拒絶するかのように、部屋は真っ暗。「故郷」の歌声だけが、星のようにきらめいていた。 翌日、伯母とジェニファーが、ウェストポートの街を案内してくれた。 白いトヨタ車は、色づいた木々の下をかいくぐるように道を進んでいく。十五分も走ると森が切れ、ぱっと海が広がった。 秋の浜に人影はまばらだった。 対岸にロングアイランド島がかすんでいる。1930年代、鳥賀陽一家がニューヨークに住んだとき、家はあのロングアイランドにあったそうだ。 僕は、かたわらのジェニファーに尋ねた。 「日本語を勉強しようと思ったことはある?」 「ノー」 「日本に興味は?」 「ノー」 彼女はちょっと中し訳なさそうな顔をした。 「うちの親はね、私たちを純粋なアメリカ人に育てようとしたみたいよ」 伯母夫婦は、子供たちに日本語も教えなかった。自分自身の経験から、アメリカで生きていく以上、それが自然だと判断したのだろう。だから、ラリーもルイーズもジェニファーもスージーも、従兄弟たちはみんな白分の中の「日本人」を打ち消そうとしている。 ジェニファーが言う。 「スージーの結婚式にあなたが来てくれて、母はとっても喜んでいたわ。アメリカにいる親戚って、カリフォルニアにいるイケダ方の人たちばっかりなの。ウガヤ家の人を迎えたのは、初めてじゃないかしら」 僕は伯母を探した。伯母は、ずっと黙ってロングアイランドの潮風に吹かれていた。 ニューヨークに帰る列車の中にいる。 夜だ。 イケダ家のアルバムのことを思い出している。ひとつ大きな発見があったからだ。 五四年の伯母夫妻の結婚式に、まだ大学生の父がいた。「日米学生会議」に出席するため、たまたまニューヨークにいたのだという。 「なんていう偶然かしらねえ」 伯母は幸せそうに言うのだった。 「私の結婚式にはマサ。娘の式にはあなたが来てくれたんだからねえ」 写真の中の父は二十二歳。僕は二十九歳だ。僕が知っている父は、髪の毛が薄くて脂ぎった、仕事中毒の中年男だ。写真の父は、ほっそりとした色白の育年である。まだ髪もふさふさして、別人のように見える。 僕と父はもう20年以上離れて暮らしている。僕には父の思い出はほとんどない。家族そろって写した写真もない。自分より若い父の姿を見るのは、初めてだった。 遠くに、ニューヨークの街の灯が見えてきた。闇の中に、おとぎの城のようにきらめいている。 ああ、もうすぐ家だ。早くシャワーを浴びて眠りたい、と思った。 僕は自分自身に驚いた。ニューヨーク?この異国が僕の家? その瞬問、雷に打たれたように、かつて父が言った言葉を思い出した。 「ニューヨークの摩天楼を見ると、僕はほっとする。僕は、ニューヨークで育ったんだから」 長らく記憶の下に埋もれていた言葉だった。祖父母が暮らし、父や伯母が育った国アメリカ。いま、その国は僕にとっても故郷になりつつあった。 アパートに掃ると、僕は便箋を取り出して、手紙を書いた。 「ニューヨークにいます。あなたの家族にも会いました。一度お話ししたく思います。ご連絡をお待ちします」 父に書く、八年ぶりの手紙だった。 (RONZA 94年12月号=創刊準備号) |
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