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中村さんのコレクションには正直言って圧倒されました。



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日本の中華流行文化ブーム
映画や音楽など、中華ポップ文化に心奪われる日本人が急増している。日本ポップと中華ポップの相思相愛状態が始まった


十二月十二日夜、張國榮の六年ぶりの歌手復帰コンサートが香港コロシアムで幕を開けた。一万人の会場で二十二日連続、という途轍もない規模の公演である。

広東語飛び交う雑踏の中で、日本語が聞こえた。日系企業で働くOL30だという。
「以前は欧州が好きでロンドンへよく行ったりしたんですが、しょせん黄色人種はマイノリティでしょ。ここは意識しなくていいから居心地がいい。自分のいるべき場所って感じがします」
三ヶ月前に香港に移住してきた。大好きなレスリーの久々のコンサートがあると聞き、それまでに引っ越そう、と決心したという。まず香港の街が好きになり、映画を見るうちに俳優としての彼がすっかり気に入ってしまった。

「皆さん、クリスマスやお正月に行ってこようと張り切っているところです」
香港音楽のファンクラブ「香港好」代表の下村康雄さん29は言う。本職は大学職員だが、好きが高じて香港ポップスのライターに。仕事の合間を縫って香港でスターにインタビュー。一泊二日でとんぼ返り、というウルトラCをやってのける。

「香港好」が八九年にスタートした時には会員はわずか三十人。それがここ一年で三百人増えて五百五十人に急増した。九割が二十五歳から三十五歳の女性だ。日本には、そんな香港ファンクラブが大きな団体だけで三つある。

香港スターのコンサートでは、日本から飛んできたファンの団体はすぐに分かる、と地元の人はいう。振り袖やチャイナドレスに身を包み、会場前でペンライトを振る練習をしている一団がそれだ。

中村誠さん22は、日欧米のポップスを聞かずにいきなり香港ポップスに夢中になった、新しい世代だ。五年前に見た香港映画でポップスにふれたのがきっかけだった。プリシラ・チャンのファンだ。
半年に一度、ボーナスが入るたびに香港へ。ブロマイド屋に飛び込み「プリシラ・チャンを全部くれ」。集めも集めたり一万枚。直筆の手紙、本人着用のステージ衣装など、自慢のアイテムは多数。今では「日本語の歌を聞くと違和感がある」とまで言う。
「香港は街がすごく元気。同じアジア人で馴染みやすい。好奇心と安心感両方があるのがいい」

日本人の中華ポップスへの認識は大きく変化した。最初は、テレサ・テンやアグネス・チャン、オーアン・フィフィのような「歌謡曲」時代(七〇年代)。次に「ワールドミュージック」「エスニック・ミュージック」時代(バブル経済期の八〇年代)。そして九〇年代。香港や台湾のポップスのクオリティは高い。日欧米と並ぶ。

「これから東アジアのポップスは『雑種』になるでしょう。中国語圏、日本、韓国の文化がミックスされた融和状態。そうなるしかない。でないと、チャイニーズの影響の下に日本は孤立してしまう」
九一年という早い段階から香港に進出してきた企画制作会社「アミューズ」の斉藤英介国際部長はそう分析する。

九五・九六年は記念すべき年だった。日本人の香港ポップカルチャーに対する認識が一変したからだ。王家衛監督の映画「恋する惑星」「天使の涙」の大ヒットが大きい。
九六年六月に公開された「天使の涙」は、単館上映ながら半年のロングランに。東京だけで七万人の観客を集め、単館上映の記録を塗り替えた。客の半分が二十歳代以下。半分以上が女性である。奇しくも、岩井俊二監督の「LoveLetter」が香港・台北で起こした現象に似ている。
大都会に住む孤独な若者たちをスタイリッシュな映像で描いたこの二本は、キョンシー、カンフーかドンパチアクションもの、という香港映画のステレオタイプを一掃。王監督の作品はタランティーノ(米)やリュック・ベッソン(仏)と並んで「ファッショナブルな映画」の仲間入りをした。

おかげで「恋する惑星」の舞台になった「重慶大〓」には、日本人観光客が押し寄せている。十七階建てのビルに雑貨屋や両替屋、安宿がひしめき、黒人や中近東の人々が出入りする猥雑な異空間である。以前は「観光客が近寄ってはならない場所」の筆頭格だった。
「あんたも日本のマスコミか。こないだはNHKってのが来たぞ」
管理人のおじさんは言う。
「映画になったのはよlく知っとるよ。ここんとこ観光客が増えたからな。日本人の若い女の子がたくさん来るよ」

興味深いのは、中華ポップの影響が素人だけでなくプロのアーティストにも及んでいることだ。
例えば、岩井俊二監督。話題作「スワロウテイル」(九六年)で、多くの中国系住民が住む日中文化混合都市「円都」として近未来の東京を描いた。江口洋介や三上博史といった日本人俳優が中国人を演じ、中国語を喋る。それでも違和感のない不思議な映画である。
「日本の若い世代はもうあまりに元気がない。元気の良い人たちのモデルを探したら、自然に中国人になった」(岩井監督)

こちらも大ヒットしたアニメーション映画「攻殻機動隊」(九五年)は、原作漫画の日本から、中国語の看板が氾濫する香港風の架空都市に舞台を移し変えている。
「東京には愛想が尽きた。もう東京は映画を作る動機にならない」
東京で生まれ育った押井守監督は言う。ビデオカメラを片手に香港や台湾に出かけて現地調査をした。「攻殻機動隊」のテーマは、高度ネットワーク社会。漢字の看板があふれる香港や台北には「情報が氾濫する近未来都市」を予感させるものがあった、という。
「東京にはもう懐かしさも何もないけど、香港にはずっとたたずんでいたい瞬間がある。僕の子供の頃の記憶とだぶるんでしょうね」

ファンキー末吉37は、人気グループ「爆風スランプ」のドラマーであり、バンドリーダーだ。彼が九六年七月に出したソロアルバム「亜洲鼓魂」には、日本語の歌が一曲もない。北京語、モンゴル語、ハングル語。共演しているミュージシャンのほとんどが「黒豹」「唐朝」など、中国や香港のロックバンドの友人たちである。

八二年のデビュー以来「爆風スランプ」はずっと日本のロックバンドの頂点にいた。ヒットチャート一位。紅白歌合戦出場。テレビのレギュラー出演。誰もが目指す「ほしいもの」を全て手に入れた末吉だったが、心は空疎だった。
「ドラマーとして生きたいのに『芸能人』になっちゃった。自分の体臭が変わるのが分かった」

疲れて、ふらりと北京を訪れたのが九〇年。何の興味もなかったこの国が人生を変えた。ライブハウスもなく「演奏許可」のいらない外資系レストランの余興としてしか演奏する場所のない、黎明期の中国ロッカーたちに出会った。
稚拙なメロディに幼稚な演奏。が、中国ロッカーは純粋で一生懸命だった。自分の好きだったロックに再び出会った思いがした。中国人は『爆風スランプ』なんて全然知らない。そんな中で、自分を一人のドラマーとして認めてくれたのも嬉しかった。

それまでは、ジャズとニューヨークに憧れる「普通の」ミュージシャンだった。が、中国人になろうと思った。NHKの中国語講座で中国語を猛勉強。九三年には中国人女性と結婚、今では一歳の娘がいる。家庭では中国語が「公用語」だ。続いて、新宿に中華料理屋を、北京にジャズ・バーを開店。今も年十数回は中国へ飛ぶ。
「僕は血は日本人だが、もう半分中国人。アルバムは中国人ファンキー末吉として作りました」

不景気やらオウムやら汚職やら、どん詰まりで疲れ切った日本人。ふと横を見れば、登り調子でめっぽう元気のいい中国人たちが。ああ、あの元気を見習いたい。日本人が中国語圏のポップカルチャーに魅力を感じ始めたのは、そんな事情なのではないか。

(AERA97.1.20)




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