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渡辺貞夫
あこがれをサックスに乗せて素直に吹く天真爛漫なる男。気負いやてらいが微塵もない、ひたすらナイスなおじさまでした。


「楽器がないと、どんなポーズをとったらいいのか分からないね」。撮影は4月下旬。掲載が初夏と聞いて、鮮やかな緑の半袖シャツで現れた。インタビューでは、お気に入りのライカを手に。 「世界のナベサダ」に、聞いてみたいことがあった。アメリカの黒人が生み育てた民族芸術であるジャズを、日本人が演奏することの意味は何なのだろう。

「僕は、かっこいいものにあこがれている。それだけの話です」
あっさりそう言われて、確かに納得するものがある。渡辺のサックスの音色は、夏の青空のように、曇ったところがまったくない。どこか演奏に怒りや悲しみがにじむ黒人とも、「本家」である黒人を意識せざるをえない白人とも、違うジャズである。

遠い文化へのあこがれ。飾らない、自然な人生への共感。そんな気持ちを素直に表現した音楽を、渡辺は「マイ・カインド・オブ・ジャズ(ぼくなりのジャズ)」と表現してみせる。

渡辺少年の最初の「あこがれ」は、アメリカだった。戦争が終わって解禁になったアメリカ映画のスクリーンからあふれ出た、ジャズの演奏。故郷・宇都宮の街に突然現れた、金髪長身のGI(ジーアイ)。カッコよかった。思春期に敗戦を経験した日本人の多くがそうであるように、渡辺も、白人に負けた、というコンプレックスを感じていた。

家業の電器店を継ぐつもりで工業高校にいた渡辺少年は「2年だけ好きなことをさせて」と親を説き伏せ、上京。それ以来、有楽町駅前の「コンボ」というジャズ喫茶が、主な居場所になった。会社員の月給が1〜2万円のころ、レコード1枚が3800円した。喫茶店にひしめき合いながら、30円のトーストをかじって1日ねばり、レコードの演奏を盗んだ。その金も払えなくなると、店の外からドアにへばりついて演奏を聴いた。高校の吹奏楽部で吹いていたクラリネットをサックスに持ち替え、1日5〜8時間の練習を、3年間、毎日続けたころでもある。

そのうちに、本物のジャズが東京にはないことに気づく。1962年、名門音楽学校であるアメリカのバークリー音楽院に、2人目の日本人学生として留学した渡辺は、米国に着くやいなや、学校のあるボストンではなくニューヨークに飛んで行った。

「あの摩天楼の下で吹けば、僕のサックスも本物に響くかも」
そう思ったのだそうだ。

本物のアメリカを見届けたあと、次なるあこがれは、アメリカ黒人の故郷であるアフリカへと向かう。道端で遊ぶ子供たちのステップ。鳥たちのさえずり。70年、初めてアフリカの地を踏んだとき、そうしたものひとつひとつに、ジャズの源流が感じ取れた、という。

昨年、長年の念願だった日本人ばかりのバンドを組み、アメリカへ演奏ツアーに乗り込もうとした時の話だ。渡辺はまず、若いメンバーを、アフリカの平原に連れて行った。野生のキリンやゾウがゆったり歩く姿を見た彼らの演奏は、渡辺の言葉を借りれば「確実に一皮むけた」そうである。

ジャズが表現しているのはアメリカやアフリカで生まれ育ったおおらかな感性であって、島国の民族は逆立ちしてもかなわない。10年ほど前から、自分の民族性を意識するようになった。

「僕の演奏も、よく聴くとウエット。演歌的なんですね」
バークリー時代の渡辺は、サックスだけでなくクラリネットやフルートが吹けることから、ずいぶん重宝がられた。そんな島国民族の器用さと、大陸民族のおおらかさ。ふたつの感性を併せもつ音楽が、渡辺の夢である。

●わたなべ・さだおサクソフォン奏者

1933年2月1日宇都宮市生まれ
51年18歳で上京。秋吉敏子、ジョージ川口らとセッション活動
62年バークリー音楽院へ留学/65年帰国。新宿のライブハウス「PIT−INN」を拠点に活動。日野皓正や山下洋輔らが続く
77年「マイ・ディア・ライフ」
78年「カリフォルニア・シャワー」
79年「モーニング・アイランド」
80年日本武道館で3日連続のリサイタル。初のアメリカツアー
89年「エニィ・アザー・フール」が米国ビルボード誌のヒットチャートに31週間連続で入る
92年南アフリカ共和国へツアー。現在アルバムが37カ国で発売されている。
趣味はカメラとゴルフ。

(AERA 92.06.30)




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