![]() 90年3月、東京ドームでのポール。体型は丸くなり、目尻のしわや白髪が目につく。永遠の青年もトシには勝てない。 |
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ポール・マッカートニー 50歳前後にして突如ビートルズ帰りしたポール・マッカートニー。あれほど嫌がっていたのに、なぜ?初老にかかると、人間だれしも自分の人生が美しく思えてくる、と誰か言っていたっけ。 |
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元ビートルズのポール・マッカートニー。来年六月で五十歳を迎える。ここに来て、最近「ビートルズ帰り現象」が著しい。 ビートルズ結成の地であり、故郷でもあるイギリス・リバプールの教会のために平和のオラトリオを作曲したかと思えば、ビートルズ時代の曲を何のためらいもなく演奏したりしている。 その「リバプール・オラトリオ」が、六月二十八日に、リバプールの英国国教会カテドラルで初めて演奏された。 「十一歳のとき、この教会の合唱団のテストを受けたけど落っこちた。楽譜が読めなかったからね。その教会で僕が作曲したオラトリオを演奏するなんて、まるで仕返ししているみたいだ」 ビートルズの曲を、クラシックの交響楽団が演奏することはよくあるが、ポール自身がクラシック形式の曲を書いたのは初めてだ。 四人のオペラ歌手と、二百二十人のコーラス隊に、ロイヤル・リバプール・フィルの演奏が付く。 上演時間九十五分の大作。ポール自身の姿とも重なるシャンティを主人公に、「戦争」「学校時代」「結婚」「仕事」「危機」とストーリーが展開し、最後に「平和」を迎える。全体に、クラシック調の荘厳な雰囲気が貫いているが、「結婚」のパートでは、いかにもポールらしいほのぼのとしたメロディーが流れる。フィナーレは「ラブ・イン・ピース」の大合唱。圧倒的な迫力だ。 ビートルズ時代のポールが、宇宙中継で「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラブ)」を歌い、ベトナム戦争が重苦しくのしかかっていた世界に平和を呼び掛けたのは、ちょうど二十四年前の六月だ。 今回のオラトリオは、ビートルズ時代時代のポールのテーマだった「平和」を、クラシックの形式に再現させた、と言える。 ポールは「戦中派」だ。 「ドイツ軍の空襲、破壊された都市、サイレン、幼時体験で覚えている。その後長く続いた冷戦も、ようやく終わった。五十歳を前に、平和の尊さをオラトリオで表現したかったんだ」 ロイヤル・リバプール・フィルが創立百五十周年記念として、この企画をポールのところへ持ち込んだのは、三年前のこと。 「世界で最も成功したポップス作曲家」として、ギネスブックに登録されているポールも、クラシックへの初挑戦には、迷いに迷った。初めて全ての楽譜を自分で書いたが、バイオリン・ソロには苦労した、と振り返っている。 初演が終了したあと、客席は総立ち。十分間鳴り止まないに拍手に、客席に座ってたポールはステージに躍り上がり、指揮者のカール・デイビスやオペラ歌手と両手を高々と上げ、カーテンコールに答えた。 「音楽家はつねに新しいものに挑戦していく。僕はいつもジョン・レノンのことを考えている。彼なら、僕の冒険に拍手を送ってくれると思うよ」 最近、ポールは「ゲット・バック」という映画を作った。 もちろん、題名はビートルズ時代の名曲「ゲット・バック」そのまま。監督は「ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!」という昔のビートルズ映画と同じ。 「それじゃあ、六十年代のあのころへ帰りましょう」 「次の曲はジョン、ジョージ、リンゴに捧げます」 などとわざわざ断って、二十三曲中十七曲、ビートルズを歌いまくるのである。 一九七〇年のビートルズ解散以来ずっと「元ビートルズのポール」と呼ばれるのを極端に嫌っていたのに、大変な変わりようだ。 二十五年前、日本武道館でのビートルズ来日公演でも使っていた、バイオリン型のベースギター(解散後は絶対に使わなかった)まで引っ張り出して、弾きまくる。昨年、日本でコンサートを開いたときも、この調子だった。 この映画の中では、ポールの演奏シーンの合間に、もう永遠に年を取ることがない、若い日のジョンの姿が、何回も挿入される。 ポールはといえば、あのどんぐり眼には皺が幾重にも刻まれ、頭は白髪混じりのグレイヘア。体型はえらく丸くなってきたし、高い声を出すのは苦しそうだ。 「レット・イット・ビー」にしろ「イェスタディ」にしろ、ビートルズのほとんどの曲は作詞・作曲「レノン=マッカートニー」と表示されている。実際はそれぞれが別個に作業をしたらしいが、ポール・マッカートニーとジョン・レノンという、二人の卓越した才能が刺激しあって、数々の名曲が生まれたことだけは、確かだ。 だから、二人が仲たがいするようになると、ビートルズは自然に解散へと向かった。ジョンは、その少し前にオノ・ヨーコという日本人前衛芸術家と出会って恋に落ち、ビートルズに興味を失いつつあった。ポールは、ジョンの分を埋めようとして出しゃばりすぎ、他のメンバーと感情的に気まずくなっていた。 ビートルズ解散後、ジョンは変わり身が素早かった。 「夢は終わった。ビートルズなんか信じない」 と歌って、さっさと「脱ビートルズ宣言」を済ませると、ヨーコという新しいパートナーと手を携え、ベトナム反戦運動や反人種差別運動、といった音楽以外の場所に活動の枠を広げて行った。 ポールは、置き去りにされたようなものである。 妻のリンダと「ウィングス」というバンドを結成し 「これからはウィングスのポールと呼んでくれ」 などと肩肘張っていたが、しょせんはポールのワンマンバンド。 解散後も、しばらく二人の反目は続き、それぞれお互いを皮肉る曲をレコードに吹き込んだりした。 一方で、ビートルズの再結成話がイベント業者から何回も持ち掛けられた。 「うん、そりゃおもしろそうだ。実現したら必ず見に行くよ」 と、ジョンはまるで相手にせず、笑い飛ばした。それとは対照的に、ポールは 「今でも、僕はビートルズの第一のファンだ」 と、むきになって怒った。自分の関知しないところでビートルズの名前が一人歩きすることに、我慢ならなかったのである。 しかし、そのジョン・レノンも、狂信的なファンに撃たれ、世を去った。もう十一年も前のことだ。 ポールは、二十年も才能を比べられ続けた、ライバルから解放されたのである。 元ビートルズの他の二人、ジョージ・ハリスンは、最近は映画のプロデュース業に精を出し、リンゴ・スターには、もう孫がいる。 音楽界の第一線で踏ん張っているのは、ポール一人になってしまった。 すでに、ビートルズ時代の巨額の印税で食うには困らないので、ロックから引退、の噂も絶えない。 「チャップリンがあのイメージから逃れられないように、僕もビートルズからは逃れられないみたいですね。それに、不思議なもので、最近は自分の方からビートルズの話がしたい気分なんですよ」 最近のインタビューで、ポールはこんなふうに言っている。 (AERA 91.7.30./この稿はノンフィクション作家宮原安春氏との共作) 《ビートルズ年表》 1956年7月 ジョンとポールがイギリスのリバプールで出会い、ポールはジョンのバンド「クォーリーメン」に参加する。「クォーリー」はジョンが通った中学の名前。 1958年2月 ポールの誘いで、ジョージ・ハリスンがバンドに加わる。 1960年8月 バンド名を「ビートルズ」に変える。 1962年8月 リンゴ・スターがバンドに加わり、4人のメンバーが揃う。 1962年10月 シングル「Love me do」でデビュー。 1964年2月 初めてのアメリカ公演ツアーに出る。大成功。日本でも初めてビートルズのレコードが発売される。 1966年6月 日本武道館で5回の来日公演。 1966年7月 サンフランシスコ公演を最後に、コンサートから引退。レコーディングに専念するようになる。ドラッグの影響で、 作る曲が複雑になり過ぎ、生演奏では再現できなくなったため。 1966年11月 ジョン、オノ・ヨーコと出会う。69年3月に結婚。 1970年4月 ポールがビートルズからの脱退を宣言。実質上の解散。 1980年1月 コンサートのため来日したポールが、成田空港の税関でスーツケースに入れたマリファナを発見され、逮捕される。9日間拘留されたあと、強制送還。コンサートは中止になった。 1980年12月 ジョンがニューヨークの自宅前でファンの男性に射殺される。40歳だった。 |
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