![]() ギターを打楽器のように扱う人だ。バックのベース、ドラムの兄ちゃんもひっくり返るほどうまくてカッコ良い |
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キザイア・ジョーンズ ナイジェリアの名家の御曹司がロンドンの路上でアフリカ人としてのアイデンティティに目覚めるまで。そして父との葛藤、別れ。 |
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嘘だろう、ジョーンズなんて白人みたいな苗字。そうぶつけると、柔和な目が光った。 「そうだよ。アメリカに連れていかれた黒人奴隷によくある平凡な白人の名前さ。キザイアはアフリカの言葉で『恐れを知らぬ者』という意味。無理っぽい組み合わせだろ」 でも、それも本名じゃないんだ。本名はオルフェミ・ソヨル。神に愛される人、という意味だ。この痩身のナイジェリア人青年は、そう付け加えた。 奴隷としてアフリカから引き離された黒人は、白人の苗字を強要された。そのことへの抗議である。尊敬する米国の黒人思想家マルコムXが「奴隷後」の苗字を使うことを拒否したように。 手を見せてもらった。右手の親指の腹に、小豆のようなタコ。この指で、クラシック・ギターの弦を狂おしく叩き、胴を打ち鳴らす。彼の手にかかると、ギターは打楽器になる。ジャズ、ファンク、ブルース。アメリカ大陸で黒人奴隷の末裔たちが生んだ音楽に似ているが、どれとも違う。彼独特のしなやかで、セクシーな音楽だ。 「僕はアフリカ人だ。去って行った人達より進んだ音楽を作ろう。最初からそう決めていたんだ」 故国では名家の出身だ。人口千万人を超える部族・ヨルバの王直属の戦士が祖先。家系は十五世紀にまで逆上る。父親がエレクトロニクス会社を経営する富裕な家庭で育ったおかげで、八歳で故郷を一人離れ、旧宗主国イギリスの全寮制名門校に留学した。 が、全校に黒人は彼一人。「アフリカを発見したのはヨーロッパ人」と教える欧州中心の授業にも、居心地の悪さが消えなかった。 人生を変えたのはポピュラー音楽、中でも黒人音楽だった。当時ロンドンはニューウェーブ全盛期。彼の心も、ジャマイカのレゲエや米国のファンクの虜になった。 「アフリカから去っていった人達が、ようやく帰ってきた。それも、故郷の文化を素晴らしく洗練して。そんな思いがした」 大学で法律や経済を勉強し、父親の会社を継ぐはずの御曹司。その彼が、高校卒業と同時に、野宿しては路上でギターを弾いて日銭をかせぐ大同芸人になった。 一方、米国の黒人思想家の著作や歴史書を読み耽る日々でもあった。ロンドンの路上の二年半が、音楽家キザイア・ジョーンズの醸成期間になった。 その間、家とは音信不通。レコード会社に見いだされたあと、デビューCDを持って故郷を訪ねると、オヤジはカンカンだった。 「将来の計画を話して、僕は真剣だ、これを聞いてくれ、とCDを渡した。僕の音楽を聞くと、父はすぐ分かってくれた。『おい、やるじゃないか』ってね」 父は知らなかったが、彼は大同芸人の二年半の間ずっと、父親が使い古した帽子をかぶり続けていた。学校へ行っている間、欧州人の目でアフリカを見ていた。今度はアフリカ人の目で欧州を見るつもりだった。 欧州人でもアメリカ人でも完全なナイジェリア人でもない、異邦人。そんな立場が気に入っている。その方が社会を冷静に見ることができるからだ、という。 今年二月、その父は世を去った。その葬儀に、彼はつるつるに頭を剃り上げて現れた。 「父はいつも『散髪しろ』とうるさくてね。僕はぜんぜん従わなかったけど。『ほら、約束は守ったよ。あなたのことを尊敬していたよ』。そう言おうと思ったんだ」 1970年1月 ナイジェリアの首都ラゴスで生まれる。兄2人、姉2人、妹3人の8人兄弟の三男。 78年 英国のパブリック・スクールへ。 88年 クラブなどで演奏ののち、ストリート・ミュージシャンに。 92年 「ブルーファンク・イズ・ア・ファクト!」でデビュー。初の来日公演。 95年 「アフリカン・スペース・クラフト」発表。2回目の来日公演。 アルジェリアは人口1億人を超える大国。ヨルバ族はその2割弱を占める農耕民族。王の下に12−14人いるバルグンの一人が祖先。植民地時代は知事だった。父の代にラゴスに移住したが、今もイスラムでもキリスト教でもないヨルバの土着宗教(祖先崇拝)を信仰。「僕はナイジェリア人ではなくヨルバ人」と言う。 一族始まって以来のミュージシャンとか。現在、故国ナイジェリア、自宅があるロンドンと恋人のいるニューヨークを行き来する生活。 |
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