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ロックで実感、自由の風エストニアのフェスティバル
ソ連解体でエストニアは独立国になった。いわゆる「バルト3国」だ。そのエストニア恒例のロックフェスティバルの話。


エストニアのロックフェスティバル会場でパンク少年が叫んだ。「俺は反共産主義者だ」。ロックは自由のシンボルになった。
ソ連「バルト3国」の最北端、エストニア共和国は、フィンランドから海をはさんでわずか60キロの距離である。フィンランドをはじめ西側のテレビやFM放送が、鮮明に飛び込んでくる。「MTV」(ミュージック・ビデオ・テレビジョン)は映るし、ヒットチャートもすぐ入る。

この国の首都タリンで「ロック・サマー」という野外ロックフェスティバルが、1987年から続いている。今年も7月19日から3日間、15カ国33バンドが出演して開かれた。日本からも「ボ・ガンボス」と「寿」が参加した。

「共和国の自由と、他国との文化交流の第一歩となるよう期待します」
冒頭、共和国のリュイテル最高会議議長がこんな祝辞を寄せた。人口160万人のこの国で、延べ30万人の観客を集める、国民的なお祭りなのだ。ランバダがあるかと思えば、ブルースやハードロック、沖縄民謡まであり。最前列の客は、青、黒、白のエストニア3色旗を振り回したりして大騒ぎだが、後ろの方では、家族やお年寄り夫婦が、のんびり芝生で弁当を広げていたりする。

ユーリ・マカロフという32歳の青年がつくった会社が、コンサートの運営母体である。「エストニア初の音楽会社」だ。ソ連ではルーブルより有り難がられる、と言われるたばこの「マールボロ」と、日本の「マツダ」がスポンサーだ。ブレジネフ時代の1975年以降、エストニアでもロックは禁止されていた。ミュージシャンは、山の中にテントを張って、楽器の練習をした。ペレストロイカで初めて可能になったコンサートなのだ。だから、この国ではロックは、自由の象徴なのだ。

一昨年までは、まるで独立運動の政治集会のようだった。トニス・マギーという常連の歌手がいた。民族運動のテーマソングになっている「神よエストニアを救いたまえ」を作曲し、「エストニアのB・スプリングスティーン」と尊敬されていたが、連邦政府ににらまれ、フィンランドに亡命せざるをえなかった。今年も、コンサートの10日ほど前に「祖国防衛隊」本部の建物が爆破される騒ぎがあったばかりである。

エストニア人がロックに開眼したのは、1960年代初頭。ビートルズを耳にしてからだ。リズムが軽くて、メロディーがきれいな曲が好きだ。マドンナやプリンスは人気がなく、ニューウェーブ系のバンドが好まれる。

「ロックは意識の高い人の音楽で、クラシックやオペラと同列に聴いているみたい」
出演した「ボ・ガンボス」の、どんと氏は、こう感じた。

ここでも、経済の悪化は深刻だ。物価はこの1年ほどで6倍。地元のミュージシャンは、音楽だけではとても生活できず、店員をやったりして食いつないでいる。唯一、発行されていたロック雑誌「Muusik」も、紙不足で昨年廃刊になってしまった。

「北方領土問題をどう思う」
髪を逆立てたパンク少年が、「寿」のメンバーに突然、真顔で尋ねたりする。ゴルバチョフに人気がないのは、誰に聞いても同じ。逆に「エリツィンが好きだ」と言うと、みんな「イエー」と叫んで大喜びだった。

かつてイギリスでは、パンクロックのスローガンは「俺は無政府主義者(アナーキスト)だ」だったが、この国のパンクスは「俺は反共主義者だ」と突っ張っていたそうだ。

(AERA 91.09.10)




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