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グロリア・エステファン キューバ難民からトップスターへ。アメリカンドリームを実現したラテンの歌姫。華やかなイメージとはうらはらに、知的好奇心にあふれた堅実なママ。スタジオの片隅のテーブルで1時間話に家族や息子の話に花が咲いた。 |
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「写真に撮られるのは慣れていますから」。ドレスの襟飾りを動かすために、反射板をあおいで風を送った。「顔に光がちらついてるわ」と、すぐ気づいた。坂田さんは「写真を分かっていますね。助手にほしいくらいです」とほめた。 意志の力、とでも言うのだろうか。ステージでライトを浴びると、158センチの体が大きく見える。 決意、勇気、希望、努力、子供や夫への愛情。前向きの人生を、のびやかな声に乗せて歌う。 「私は、シンデレラではありません」。ゼロから努力を重ねて成功を手にした自信が、彼女の存在感を増すのだろう。 1959年、フィデル・カストロがキューバで社会主義革命を成功させると、数十万の難民が約250キロ先のアメリカに逃れた。革命政権はじきに転覆されると信じていた彼らは、すぐに帰国するつもりで、キューバとは目と鼻の先のマイアミ市に住みついた。そんな難民の中に、当時2歳のグロリアもいた。最初に住んだアパートは、野球場のそばのスラムだった。キューバ人ばかりの住人は、グロリアの家も含め、どこも父親がいなかった。アメリカ政府に支援された反革命軍に加わっていたのである。 グロリア自身は、大学の学費を工面するために、仕事を4つ掛け持ちしなければならなかった。学校へ行くのは午前中だけ。移民局の職員、スペイン語の通訳、ギターの先生。そして夜は歌手。 自分と同じヒスパニック系住民を相手に、スペイン語でラテン音楽を演奏するバンドが、歌手としてのスタートである。結婚式やパーティーを回って演奏、という生活が何年か続いた。 そんなエステファンの音楽を最初に認めてくれたのは、故郷の中南米の人たちだった。しかし、ヒスパニック以外のアメリカ人に受け入れられるには、ラテン音楽のにぎやかな管楽器や打楽器を止め、英語のポップソングを歌わなければならなかった。 アメリカのヒスパニック系人口は、2240万人。その中には、彼女のようなキューバ系もいれば、プエルトリカンも、メキシコからの移住民もいる。アメリカの人口の約1割。2010年には、黒人を抜いて最大のマイノリティー・グループになるのは確実と言われる。 「アメリカ人になりきろうとして名字を変える人もいるけれど、私はヒスパニックであることを誇りに思っています」 ブッシュ大統領に招かれ、ホワイトハウスで演奏したことがある。大票田であるヒスパニックの人気を引き付けたい、というパフォーマンスである。 しかし、「政治」をテーマにした歌は、歌うまい、と心に誓っている。父親は、キューバではバチスタ政権の軍人だった。反革命軍が敗退して捕虜になり、続いてベトナム戦争にも従軍した父親は精神を病んで、二度と健康を取り戻すことはなかった。「政治」に翻弄された人間の悲しみは、よく知っているのだ。 黒い毛皮のコートを着て、手には1升瓶のようなミネラルウォーターのボトルをぶらさげ、インタビューに現れた。「喉が荒れると歌えなくなるから」と、時おりボトルを口にぐっと当てる。いつも、旦那さんが選んだ服をそのまま着ている。ショッピングが嫌いなのだそうだ。 日本は、13年前にハネムーンに来た、思い出の国だ。「買い物より、旅先の博物館や美術館を訪ねるのがいいわね」。そう言って、11歳の息子ナイーブ君を連れ歩くママでもある。 ●Gloria Estefanグロリア・エステファン歌手 1957年グロリア・マリア・ファハルドとしてキューバ・ハバナに生まれる 60年アメリカに移住 75年エミリオ・エステファンの「マイアミ・ラテン・ボーイズ」に参加。後にバンド名を「マイアミ・サウンド・マシーン」に改める 79年エミリオと結婚 84年スペイン語で歌うのをやめ、英語で吹き込んだアルバムを発売 90年3月乗っていたバスにトラックが追突、脊髄に重傷を負う。1年間のリハビリ生活のあと復帰。 祖父はスペイン人。バンドのリーダーでもある夫エミリオ氏はキューバ生まれのレバノン人。息子ナイーブ君との3人家族。家庭の会話はスペイン語。「ナイーブ」はレバノン語で「善良な人」の意味。 (AERA 92.02.04) |
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