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法悦を呼ぶビートの系譜・人間はなぜ踊るのか
憂き世を忘れ、自らをとき放ちたい。人間はずっとそう念じ続けてきた。その願いをかなえたのは、音楽だった。古くは宗教、現代ではディスコ。根底に流れるのはビートへのあこがれだ。


彼の歌を真っ先に迎え入れたのは、トーキョーやロンドンのクラブ(ディスコ)だった。ヌスラット・ファテ・アリー・ハーン。パキスタン人。

パキスタンやインドの民衆の間で、700年以上根を下ろしているイスラム神秘主義(スーフィズム)の宗教歌「カッワーリー」の伝承者である。3月下旬、東京と大阪で公演したヌスラットの歌声を、1万人近い人々が聴きに集まった。クラブ用に、彼の歌をシンセサイザーのバック演奏とミックスした「ハウス・ミックス」のCDも、高い人気を保っている。

音楽を「神を忘れさせるもの」として厳しく禁じるのが、正統派イスラム教。スーフィズムは逆に、歌や踊りで精神を高揚させて忘我の境地に至り、神に近づくことを教義としている。理性を超えて神と直接交渉するから「神秘主義」と呼ばれるのだ。ヌスラットが歌うカッワーリーは、聴く人を神の高みへと導く階段なのである。

手拍子とタブラ(インドの太鼓)が延々と8拍子のリズムを刻み続け、その上に歌が乗る。ヌスラットが節回しを即興で投げると、弟子が受けて返す。また投げる。オペラ歌手に匹敵する声量と音域。言葉は分からないのに、次第に引き込まれる。周囲を見回すと、観客は手拍子を打ち、上半身を揺すっている。立ち上がって踊りだす人もいた。本場パキスタンでは、イスラムの聖者の命日のお祭りになると、聖者を祭る廟で、カッワーリーが徹夜で繰り広げられる。最後は陶酔状態になって、失神する人も出ると聞く。カッワーリーが、インドのヒンドゥー教徒をイスラム教に改宗させるのに重要な役割を果たした、というのもうなずける話だ。

2月中旬の東京で、よく似た陶酔感を経験した。それは「ミシシッピー・マス・クワイア」という、米国ミシシッピー州の黒人霊歌(ゴスペル)楽団のコンサートだった。ゴスペルが白人の聖歌隊と違うのは、ダンスができるような賛美歌を歌う点だ。男女20人ほどのコーラス隊に、ドラム、ベースギターのリズム楽器が加わっている。

手拍子を打ち、足を踏み鳴らしながら、コーラス隊が次第に最高潮に達したところに、牧師が登場し、コンサートは礼拝に早変わりする。牧師の祝福の言葉が続く間、楽団員一人一人が客席におりて観客と抱き合い、神の祝福を分かち合う。

会場には、不思議な高揚感が満ちてくる。団員が感極まって泣き出すのは序の口。腰が立たなくなり、仲間に抱きかかえられて壇上に戻る人もいる。なるほど「法悦」とは、こういう状態を指すのだろう。

実は、この黒人霊歌の陶酔感(エクスタシー)こそが、現在のディスコ音楽の源流なのだ。1952年、米国南部ジョージア州の少年院から、車の窃盗犯の黒人少年が仮出所した。

「人生を神に捧げるため、ゴスペルを歌いたい」

そんな嘆願書を書いて、仮保釈された少年は19歳。名前をジェイムズ・ブラウンといった。64年になって、彼はまったく新しい音楽を生み出す。それは、ひとつのコード、同じリズムの演奏が10分、20分と延々と続くダンス音楽だった。ドラムやベースはもちろん、ギターもボーカルもメロディーを奏でず、打楽器のようだった。

それは、聴く人が踊りださずにはいられない新しいビートだった。「ゴスペルの陶酔感だけを取り出した」この音楽は、後に「ファンク」と呼ばれるようになる。70年代に入って、ファンクは洗練されて「ソウル」とも呼ばれるようになり、やがてディスコ音楽に発展する。日本でもブームになった「サタデーナイト・フィーバー」もそのひとつだった。

延々と反復するビートは、踊る人の時間感覚を麻痺させ、忘我の境地へと導く。カッワーリー、ゴスペル、ファンクと共通するこの様式は、現在クラブで主流の音楽「ハウス・ミュージック」にも受け継がれている。

「くせ者は、太鼓の音です」
『神秘体験』(講談社現代新書)の著書がある宗教研究家の山折哲雄・国際日本文化研究センター教授はこう言う。

山折教授は、インドの仏教寺院で、朝夕3時間ずつ、ぶっ通しで太鼓を打ち続ける行をやったことがある。お経を唱えながら太鼓を打ち続けると、次第に頭の中が真っ白になった。身体の痛みが消えるころ、雑念が消え、無念無想の境地に近づいた。

「太鼓のビートには、人間の原始的感情を直接刺激する何かがある。人間が羊水に包まれている胎児のときに聴く、母親の心臓の鼓動に似ている、という説もある」br>
日蓮宗の信者はウチワ太鼓をたたきながらお経を唱える。インドのヨーガ哲学には、手拍子と太鼓を打ちながら題目を唱える「チャンティング」という精神修養があり、時には、連続十数時間も続くことがある。古今東西、ビートによって神の境地に近づこうとする試みは、珍しいことではないわけだ。

「人間には古来、体を動かして、社会的・文化的な抑圧から自由になりたい、という欲求がある」
宗教と音楽の関係を研究している桜井哲男・国立民族学博物館助教授はそう指摘する。

ところが、現代の管理社会では、そのはけ口がほとんどなくなっている。特に都市に暮らしていれば、日常から解放されて思う存分リズムに身体を委ねられる空間といえば、ディスコか、エアロビクス・スタジオくらいだ。イスラム神秘主義の歌謡が、現代のディスコに蘇ったのは、単なる「ワールド・ミュージック」ブームでも偶然でもないのだ。

(AERA 92.06.02 )




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