![]() 一階にはバーのほか、ジミ・ヘンドリクスがギターを買ったという伝説の中古ギター屋がある |
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NY芸術家の安息の家・チェルシーホテル NYの芸術家たちの安息の家、チェルシーホテル。日本人にはほとんど知られていない。できれば、知られないままでいてほしい。 |
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ニューヨーク市23丁目西222番地。チェルシー・ホテルのロビーに一歩足を踏み入れた瞬間に、ここが並のホテルでないことはすぐ分かる。壁一面に並んだ抽象画。天井から吊るされた彫刻。廊下を歩けば、どこからか油絵の具の匂いが漂い、部屋から手動式タイプラィターを叩くカタカタという音が聞こえてくる。 「ひとつ屋根の下に、これほど多様な知性が集まった場所は、世界のどこにもありません」 支配人のスタンリー・バード氏(59)の言葉は誇張ではない。作家、詩人、音楽家、画家、俳優。この十一月十一日に百十周年を祝ったチェルシー・ホテルは、芸術家たちに創作と安らぎの場所を提供してきた。その住人をたどると、アメリカの文化史そのものになる。 例えば、O‐ヘンリー。横領で服役し、妻にも先立たれた彼は、1901年にノースカロラィナからニューヨークにやって来た。が、自分のアパートには寄りつかず、飲んだくれてはチェルシー・ホテルに転げ込む。そんな生活を繰り返していた彼は、1910年にアル中で47年の生涯を閉じるまでに、250の短編小説をここで書き上げた。その一つが、ホテルからほど近いグリニッチビレッジを舞台にした『最後の一葉』である。 詩人のディラン・トマスは205号室に住んでいた。ある夜、ウイスキーを十八杯飲んだ彼は「こりゃあ新記録だ」と言い残して卒倒し、そのまま帰らぬ人となった。 829号室ではトマス・ウルフが『汝再び故郷に帰れず』を書いた。 『セールスマンの死』で知られる劇作家アーサーミラーは、マリリン・モンローと離婚した後、1960年から八年間、チェルシー・ホテルに住んで『転落のあとに』を書き上げた。 SF作家のアーサー・C・クラークは、77年にスリランカに引っ越すまで、21年間、1008号室に住んでいた。彼は、チェルシー・ホテル最上階のこの部屋で、望遠鏡で星を眺めながら、あの仕大な『2001年宇宙の旅』を書いた。 文学者ばかりではない。61年、ミネソタの大学を中退してニューヨークにやってきたロバート・ジンマーマンというユダヤ人青年がいた。詩人のディラン・トマスを崇拝していた彼は、チェルシー・ホテルに居を構えると、グリニッチビレッジのカフェで、ギター一本で自作の歌を歌う活動を始めた。翌年、彼は「ボブ・ディラン」という芸名でレコードを出した。 どっしりした煉瓦づくり。鋳物の手すりが、レースのように建物を飾っている。ヴィクトリアン・ゴシック調の外観は、百十年間、何も変わっていない。国の史跡(ナショナルランドマーク)にも指定されている。 先人たちにあやかろうと、今もここに家を探す芸術家の卵は後を絶たない。アメリカやヨーロッパからやってきた若者たちが、何時間もロビーに座ってチェルシー・ホテルの空気を吸っている。 「数々の傑出した芸術家に、安らぎの場を与えてきたチェルシー・ホテルほど、人類の創作活動にとって重要な場所はほかにない」(ニューヨーク市文化局) 「創造と悪行が同居するバベルの塔」(ニューヨーク・タイムズ紙) なぜこのホテルはこれほどまでに芸術家たちを引きつけるのか。一つには、マンハックンの街中にいるのが信じられないくらい静かなことだ。 1884年に建てられたとき、チェルシー・ホテルはニューヨーク初の分譲式アパートだった。その後、ホテルに改装されたが、今も西百室のうち250室はアパートとして人が住んでいる。ワンルームの家賃が月千二百五十ドル。マンハッタンでは安くもなく高くもなく、である。 ホテルなのに、部屋にはエアコンもテレビもない。その代わりに、大理石の暖炉がデンと部屋の一角を占めていたりする。レンガの壁は厚さが七十センチもあって、表の喧噪から部屋を守っている。 チェルシーという一角そのものが、ニューョークの中では不思議な場所だ。今も芸術家の巣であるグリニッチビレッジや、画廊街のソーホーにも歩いていける街中なのに、ちょっと脇道に入れば、エアポケットに入ったかのように静かな住宅が並んでいる。 チェルシー・ホテルが建ったころ、この界隈はマンハッタンの北はずれの住宅地だった。その後、繁華街は北へ広がり、チェルシーにもデパートやオペラハウスが立ち並ぶ。が、これもまた1930年代の大恐慌でさびれてしまう。都会の喧喋と住宅街の静けきが奇妙に同居しているのは、そんな歴史のためかもしれない。 チェルシー・ホテルの住人たちの間には、不思議な家族意識がある。隣人が三日も姿を見せないと、たちまち大騒ぎになる。病気で寝込むと、フロントがスープを運んでくれたりする。ニューヨークという冷酷な大都会では希有のことだ。 屋上の菜園ではブドウやモモが実をつけ、ロビーにはバード氏が飼う犬の「ジンジャー」が寝そベっている。一階のバーでは、毎夜のように住人たちが芸術談議を交わしている。かつては、詩人のアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズも常連だった。 「仕事を終えたあと、音楽家やら画家やら、自分と違う分野の連中が集まって、議論をする。それが刺激的なんだ」五○年代からの住人である劇作家のアーノルド・ワインスタイン氏(59)はこういう。彼もまた、ディラン・トマスに憧れてここに住みついた一人である。 「作家というのは孤独な職業だ。それに耐えられず、酒やドラッグに溺れたり、自段してしまう人もいる。が、チェルシーは、パリのカフェのように、都市の中のもう一つの共同体として機能している」かつて住人だった作家のピート・ハミルもそう書いている。 「私の仕事は、芸術家に芸術のための場所を提供することだ」 そう言い切る支配人バート氏の頑固な経営哲学も、チェルシー・ホテルの名物だ。 華々しい歴史を持ちながら、観光客目当ての宣伝は一切しない。入居者のチェックも厳格。彼が入居を認めれば、それだけでアーティストとしての格が上がる、とさえいわれる。 「そりや、旅行代理店と組んで金もうけするのは簡単だ。だが、いっぺんに四十人も五十人も観光客が来てごらん。静かな雰囲気がぶち壊しじやないか」 父親も、1937年からチヱルシー・ホテルの所有者であり支配人だった。バード氏がその後を継いだのは57年。今は、息子のデビッドさん(27)が三代目支配人となるべくバード氏の下で修業中だ。 ロビーに飾られた絵は、バード氏自身のコレクションだ。 「チェルシー・ホテルでは、家賃が払えなければ絵で払える」 そんな噂まであった。さすがにこれは作り話だそうたが。 バード氏によると、チェルシー・ホテルの将来の計画はひとつしかない。 「何もしないこと。今のままの雰囲気をできるだけ守ること」 フランス人の仏教尼。スイス人の彫刻家。中国人の舞踊家。レーサー。パントマイム師。ポルノ女優。太極拳の教師。ホッケー選手。現在の住人たちの顔ぶれだ。ビート族やヒッピーがホテルを席巻し、時に麻薬の売人が出入りした50〜60年代に比べると、最近はチェルシー・ホテルの住人もおとなしくなった、というのが、古くからの住人の一致した意見だ。 今では、ウォール街で働くビジネスマンも住んでいる。マンション風に部屋を改装する住人もいる。 60年代のチェルシー・ホテルは、ジャニス・ジョプリンやジェファソン・エアプレイン、グレイトフルデッドといったロックスターたちと、ベトナム反戦運動家が仲良く暮らし、梁山泊のような熱気に包まれていたらしい。 一階のバーのカウンターに座ったワインスタイン氏はこういう。 「あのころは社会全体が動いていた。チェルシーから見ていると、最近のアメリカ社会は情熟を失ってしまったような気がする」 チェルシー・ホテルが舞台の作品 「チェルシー・モーニング」という歌がある。 67年にデトロイトからニューヨークにやってきたフォーク歌手のジョニー・ミッチェルが、チェルシー・ホテルで迎えたニューヨーク初めての朝の感激を歌った曲だ。 この爽やかな歌とともに青春を過ごしたある青年が、やがて父親になったとき、自分の娘を「チェルシー」と名づけた。この青年とは、若き日のクリントン大統領である。 七○年代後半には、詩人のパティ・スミスが住んでいた。写真家ロバート・メイプルソープ唯一の女牲の恋人である。メイプルソープは、彼女をモデルに、女牲とも男性ともつかない不思議なポートレートを何枚か残している。そのうち何点かは、チェルシー・ホテルのスミスの部屋で撮影されたものらしい。 事件もあった。78年、パンクロックの大立者セックス・ピストルズが解散したあと、メンバーの一人シド・ピシャスがロンドンからニューヨークに引っ越してきた。彼は、チェルシー・ホテルの自室で恋人を刺殺。保釈中の四カ月後、同じ部屋でヘロインの打ち過ぎのため命を落とす。今でも、ホテルのエレベーターにはビシャスの幽霊出る、という話がある。 ポップ・アートの巨匠アンディ・ウォーホルは、その名も「チェルシー・ガール」という映画をここで撮影した。その時の女優の一人が今もチェルシー・ホテルに住んでいる。最近では、マドンナが622号室で写真集「SEX」を撮影した。乱交パーティーの場面である。 ウッディ・アレンも、快画「マンハッタン・マーダー・ミステリー」をロケした。 ( AERA1993.12.20) |
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