![]() 50万人という数は首都ワシントン人口なみの数だった |
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ウッドストック・あれから25年 音楽というジャンルを超えて、ウッドストックは60年代アメリカ社会を象徴する事件になった。それから25年。「金のなる木」になった「愛と平和の祭典」。 |
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マンハッタンから北に車で二時間。ニューヨーク州ベッセルは人ロ四千人の寒村だ。丸みを帯びた緑の丘で、牛や馬がのんびり草を食んでいる。 枚草地の一角に、畳一枚ほどの記念碑がぽつんと残っている。 「ウッドストック・音楽と芸術の祭典・開催の地」 この2.4平方キロの牧場に、50万人が集まり、空前の規模の屋外コンサートが開かれたのは、1969年8月15日である。 夕闇の中、反戦歌手ジョーン・バエズが澄んだ声で「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌った。 カントリー・ジョー・マクドナルドは「なんでおれたちは戦争なんかやっているんだ」と歌い、ジミ・ヘンドリクスは大音響の歪んだギターで「星条旗よ永遠なれ」を奏でた。 フォーク、カントリーからインド音楽まで何でもありだった。この「ウッドストック」は、その後、単なるコンサートを超えて、当時のアメリカ社会を象徴する記念碑として語り継がれている。 たとえば、ここに集まった若者たちのように、第二次世界大戦直後に生まれた世代を「ウッドストック世代」と呼ぶ。日本でいえば「団塊の世代」である。 「それまでバラバラだった若者のカウンター・カルチャーが一つの場所に集まり、仲間の多さを確認した。そして三日間、仲良く助け合って暮らし、自信をつけた。大人たちも、その資質を認めざるをえなくなった。それがウッドズトックなのです」 25年前、コンサートの総指揮者だったマイケル・ラング(49)は振り返る。ウッドストック25周年記念コンサートを再び企画している。映画「ウッドストック」ではバイクに乗って奔走する美少年として登場する。巻き毛に白髪が混じったこと以外はあまり変わらない。 六○年代のアメリカは動乱の時代だった。ケネディ大統領やキング牧師が暗殺された。ベトナム戦争は泥沼伏態。反戦運動を先頭に、あらゆる種類の変革がアメリカ中にわき起こっていた。 反人種差別運動。ウーマンリブ。大学改革。禅。インド哲学。自然農耕。ドラッグ。ヒッピー。サイケデリック・アート。フリーセックス。菜食主義。 三日間のコンサートも、そんな時代を反映した内容だった。ステージの音頭取りで五十万人が「ファック!」(馬鹿野郎)を三唱。ヨガ哲学の導師のお説教があったかと思うと、反戦アジ演説が始まったりもした。 演奏を何回か中断させた夕立も、群衆の連帯感を深めるのに一役買った。誰もがわけばてなくずぶ濡れになり、子どものように泥の中を転げ回った。最後は、男も女もすっ裸で池に飛び込んだ。マリファナやLSDに酔い、恋人たちは木陰で抱き合った。 それは、まさに「解放区」だった。 「一生分のクリスマスと誕生日が来たみたいだった」 観客の一人だったデューク・デプリン(51)はそういう。ヒッピーたった彼は、そのまま地元に住み着き、カボチャやスイカをつくって暮らしている。 世間が鷲いたのは、五十万人という群衆が集まりながら、暴力沙汰が一件も起こらなかったこと。それどころか、見ず知らずの者同士が食べ物や水、テントや寝袋を分け合った。 左翼過激派も暴走族も、枚場に寝そべってのんびり音楽を楽しんだ。 「ヒッピーたちが近所を一軒ずつ回って言うんだ。何か間題があったらご連絡ください、ってね。本当に行儀の良い若者たちだった」 地元で食料品店を営むフレッド・バスマー(74)はそう振り返る。 しかし、夢は長くは続かなかった。終わってみると、収支は150万ドルの赤字。この借金の扱いをめぐって、主催者の間で、お互いを告訴する訴訟合戦が始まる。もともと、コンサートで一山当てて録音スタジオを建てよう、という目論見で、ラングら四人の若者が半年がかりで計画したプロジェクトである。 結局、財務担当たったジョン・ロバーツ(48)とジョエル・ローズマン(51)は、ラングがウッドストック運営のためにつくった会社を買収して彼を迫い出してしまう。それでも、巨額の借金の返済には八○年までかかった。交通渋滞やゴミの山に懲りたベッセルの町は、この後、一万人以上の集会を禁じる条例を可決。いまだに、町には観光客向けの案内板も、一軒の土産物屋もない。 コンサートのために枚場を快く貸した農民マックス・ヤスガーは73年に死去。土地はニューヨークに住む投資家の手に渡った。音楽で愛と平和を実現する、という理想も潰えた。この四カ月後、カリフォルニア州オルタモントで開かれたローリング・ズトーンズのコンサートで、舞台に発砲しようとした観客が警備員に殺害される、という事件が起きたからだ。 そして二十五年。 ラングはマンハッタンにオフィスを構える音楽事務所の社長である。年商は二百万ドル。マンハッタンと郊外に2軒家を構える。22歳を頭に三人の娘を持つ父親だ。 「何もかも変わったよ。僕もあれからいろいろな経験を積んだし。正直言うと、最近の若い世代がどんな人たちなのか、よく分からないんだ」 変わったのは彼一人ではない。89年に「ライフ」誌が観客数百人の追跡調査をしたところ、ほとんどの人がコンピューター技師や弁護士、ビジネスマンなどの職業に就き、二十歳前後の子どもの親になっていた。 一方、ロバーツとローズマンは企業の共同経営者として今も行動を共にしている。企業のM&Aから菓子の製造、農機具の販売まで手掛けるビジネスマン。どちらも、大学生や中学生の子どもを抱える父親だ。 69年以来、倹悪な仲が続いていた三人は、25周年記念コンサートを企画するため、再びよりを戻している。今画、彼らがコンサートを計画しているのは、25年前の会場から80キロ東にあるウッドストックの町。かつて、いったん会場の予定地になりながら、地元住民の反対でお流れになった場所だ。分裂したまま二つのコンサートをやるより、手を粗んだ方が収益が良い。地元の税得のためにも得策。ロバーツもローズマンも、それか和解の動機であることを否定しない。 「もちろん収益はコンサートの動機のひとつだ。前回はあまり良い投資じやなかったからね。今回はもっと儲かるようにきちんとするつもりだ」 ロバーツは、そう言ってはばからない。記念コンサートは予纂規模2000万ドル。チケットは一枚百ドルから二百ドル。25万人の動員を見込む。ニューヨークやボストンなど近隣の主要都市からバスで観客を送り込む予定だ。 3人に代わって、ベッセルの町での25周年コンサートに名乗りを上げたのは、シド・バーンスタインという老練な興行師。六○年代、ビートルズやローリング・ストーンズを初めて米国に連れてきたことで知られる。こちらも、予算千万ドルクラスの大イベントを企画。コンサートを受け入れれば、記念博物館や音楽学校を建てる、という話をベッセルの町に持ち込んでいる。 町側は、チケット1枚あたり10ドルを町に寄付するよう、バーンスタインに要求した。牧畜が主産業の寒村にとっては、願ってもない儲け話だからである。 「いま住民が望んでいるのは、コンサートが地元経済に好影響を与えてくれることなのです」 ベッセル町長のアラン・スコット(51)はそう話す。 ラングたちが、二十五年前と同じ楊所をあきらめざるをえなかったのは、地主が五百万ドルという巨額の賃貸料を要求したため、というのが通説だ。 二十五年が経って「ウッドストック」は「愛と平和の祭典」から「金のなる木」になった。 ローズマンは、記念コンサートを機に「ウッドストック」の商標登録をワーナー・プラザーズ社から買い戻すことに成功した。 インタビューの最後に、彼がこう尋ねてきた。 「トーキョーに『ウッドストック・カフェ』を開く計面があるんだけど、いい考えだと思わない?」 |
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