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カメラを向けると茶目っ気たっぷりの表情をする、気のいいじいさんだった。



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エレキの父・レス・ポール、いまも現役!
え!あのレス・ポールが生きている!しかも、毎週クラブで演奏している!NYで一番驚いたのがこの人の存在。ここではロックはもう伝統芸能なのだなあ


レス・ポ‐ル78歳「まだ現役だよ」
病魔と闘いながら、今も毎週ステージで生演秦

七十年近くギターの弦を押さえてきたレス・ポールの左手の指は、指紋がほとんど消えている。一九五○年代には数千万枚を売る数々のヒット曲を生んだ黄金の左手も、今では関節炎のために二本しか指が動かない。十年ほど前には、心臓の血菅にバイパスを通す大手術をして九死に一生を得た。耳には補聴器が必要だ。

そんな困難にもめげず、彼がステージに復帰したのは八四年。以来、マンハッタンの小さなジャズクラプ「ファット・チューズディ」での近一画の演秦は、休むことなく九年間続いている。

「おやおや、今日はきれいなお姉さんがたくさん来てるね!」
今日が誕生日だという客を見つけると「ハッピー・バースデー」を即典で弾き始めた。五一年のヒット曲「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」から「虹の彼方に」といったスタンダードまで。
時に客のリクエストに答え、時に軽妙なおしやべりを交えながら、レス・ボールは午前零時近くまでギターを弾き続けた。

「最初はまあ二、三回くらい続けばいいと思った。ところが、わしが演秦するとお客さんがことのほか喜んでくれた。それがまた嬉しくてね」
レス・ポールはいくつもの点でポピュラー音楽の歴史に名を残している。特に重要なのは、共鳴胴のないソリッド・ボディーのエレキギターを発明したことだ。彼が設計し、五二年に生産が始まったギプソン社の「レス・ポールモデル」といえば、販売数でも品質でも、フェンダー社の「ストラトキャスター」と並び立つエレキギターの巨頭。プロギタリストで「レス・ポール」を使ったことがない人を探すのが難しいくらいだ。特に五○年代末の製品は名器とされ、一本二百万円から三百万円の値段がついている。
楓とマホガニーを張り合わせた重いボディが出す音は、堅くて厚い。だから、音数が少なくても音が薄くならない。
四十年を経た今も、エレキギターの基本形は「レス・ポール」からほとんど変わっていない。

もう一つ、録音技師として多重録音を発明したという功績もある。それまでは一発録音が主流だったから、厚い音がほしいときは大人数のビッグバンドに頼るしかなかった。だが、重ね録りができれば、ギタリストが一人いれば足りる。この二つの発明のおかげで、ボピュラー音楽の主流は大編成のピッグバンドから三〜五人のロックバンドへと姿を変えた。

一九一五年、ウィスコンシン州の田舎に生まれた。ギターも電気技術も独学。三○年代からジャズやカントリーのバンドで演秦、蓄音機のコイルを生ギターに取り付けて弾くことを思いつくが、共鳴(ハウリング)ノイズがびどくて使いものにならない。これが胴体が一枚板のギタ−を生むヒントになった。
四○年から五○年代には、ビング・クロスビーと共演したり、妻のメアリー・フォードとのデュオで、ラジオやテレビの人気者になった。が、六○年代半ばには演奏活動から引退していた。

復掃を決意したのは、病魔に続けて襲われたことがきっかけ。
「これまでの人生で良かったことと悪かったことをすべて紙に書き上げてみた。その時、やっばりわしはギターを弾いているのが一番幸せだ、と気づいたんだ」

自由に動く残り二本の指でかつてのレパートリーを弾けるようになるまで、五年間を練習についやした。が、そろそろあと一年くらいでステージはやめるつもりだ、と彼はいう。音響機材の研究や、自伝の執箪など「他にも、やりたいことが他にもたくさんあるから」だそうだ。

一生を捧げた音楽について、彼はこんなふうに振り返る。
「音楽は心(ハート)でプレイするもんだ。一番肝心なのはメッセージだ。メッセージが良ければ、音楽は人を泣かせることも笑わせることもできる」

( AERA 1993.9.21)




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