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クリスタル氏。場所はチャイナタウン、イースト・ビレッジから歩いてすぐ。上品な界隈ではないが、治安は噂ほど悪くない。最近は日本人観光客も増えた



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パンクの揺りかご、20歳に
NYへ行ったら絶対訪ねようと誓っていたのがライブハウス「CBGB」。僕の一生を狂わせたパンクロック生誕の地である。


「二十歳になったパンクのゆりかご」
バンドと貧乏をともにして、ロックの歴史をつくる

マンハッタン南部にある小さなライプハウス「CBGB」が昨年暮れ、開店二十周年を迎えた。このお祝いのために、十二月には百以上のバンドが、特別に10ドル前後の格安の入場料で出演した。

その中には、デビッド・バーンのように、十数年前にここで初めてステージを踏んたアーティストもいれば、十代のころパンクロックを聴いてプロを志した若いバンドもいた。ロンドンやカナダ、果てはシーナ&ロケッツのように、はるばる日本からやってきたバンドまであった。

ニューヨーク・タイムズ紙はCBGBの歴史を1ページ丸ごとを割いて取り上げた。ニューズウィーク誌やCNNも特集を組んだ。

これほど騒がれるのにはわけがある。七○年代中ごろにCBGBから始まったパンクロックは、数年後にロンドンに飛び火。ニューウェープと呼び名を変え、その後のポピュラー音楽の地図を塗り替える一大勢力に発展したからた。

「私は才能のあるミュージシャンに演奏の場を与えただけ。パンクなんて名前も考えつかなかった」
サンタクロースのようなひげに、太鼓腹。CBGBを切り盛りしてきたオーナーのヒリー・クリスタル(62)は、そう話す。

六○年代末、別のライブハウスでの見習いから独立したクリスタルは、ビール大ジョッキが二十五セントで飲めるような安酒場を、いまと同じ場所に開いた。が、集まってきたのはホームレスとヘルズエンジェルズ(暴走族)ばかり。近所の苦情に突き上げられ、ライプハウスに商売がえした。
これからはカントリーにプルーグラス、ブルースがはやる、と読んで、それぞれの頭文字から店を「CBGB」と名づけた。(この読みは見事に外れる)

ある日、小汚い四人の若者がオーディションに現れた。フリージャズの影響を受けた演奏。フランス象徴主義のような歌詞。「CBGB」にはちょっと前衛的すぎるグループだったが、クリスタルは出演させることに決めた。この「テレビジョン」というバンドは、後にLPを二枚発表し、イギリスのニューウエープに重大な影響を与えた。彼らが着ていた破れたTシャッにジーンズ、そしてボサボサ頭といういで立ちは、あっというまにパンク・ファッションの定番になった。

彼らの評判が呼び水になって、どこにも漬奏する場所がなかったバンドが集まってきた。トーキング・ヘッズやラモーンズ、ブロンディ。
クリスタルは、どこかに光った個性があれば、演奏が少々突飛でも出演させ、売り上げの八割をバンドに還元した。生活の苦しいミュージシャンに対する最大限の配慮たった。その方針は二十年間ずっと変わらない。
「客が入らなけりや、ミュージシャンも苦しいし私も苦しい。一緒に苦しむのが大事なんだ」

無名のアマチュアが出演する夜の方が多い。客は二十人前後。ひどい時は、バーテンと犬を入れて五人、という夜もあるという。だから店はずっと貧乏だ。CBGBは、ホームレスが身を寄せる簡易宿泊所の一階にある。家賃は安いが、お世辞にも柄が良い界隈とはいえない。同じニューヨークのライプハウスでも、「ボトム・ライン」や「プルー・ノート」のような華やかな観光名所とは違う。薄暗い場内を歩くと、油臭い床がギシギシ鳴る。椅子は粘着テープでぐるぐる巻き。二十年間に出演したバンドが残していったビラや落書きが、壁という壁を埋めている。

「優れた才能を見つけて世に送り出すのは、山の中で美しい滝を発見するような楽しい作業だ。それ一好きで、二十年間、苦しいと思たことはないね」 インタビューが終わると、クリタスルはまたせっせとビールのケースを運び始めた。

(アエラ 94年1月24日号)




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