m_p11.gif (9k)
メディアの虚像が伝説化したセックス・ピストルズ(77年ごろ)



logo_s.gif (1064bytes)



i_1.gif (437bytes)
パンクロックはメディアイベントだった!
パンクの洗礼を浴びた日本人は多い。筆者もその一人。
あの大騒ぎはいかにして作られたのか?



昨年十一月五日、僕は日本武道館にいた。十八年ぶりに再結成、日本を初めて訪れたセックス・ピストルズのコンサートを見るためである。演奏はまだ始まっていなかった。席に着くなり、とんでもないモノがステージにあるのが見えて、僕は仰天した。それは何か?その話はひとまず置いておく。

ポピュラー音楽の流れを変えたという点では、ピストルズはビートルズと並ぶ重要なバンドである。八〇年代のニューウェーブも、九〇年代のグランジロックも、ラップ・ヒップホップも、ハウスもテクノも、ピストルズとそれに続くパンク・ロックがなければ生まれなかったと言っていい。初期のマドンナがパンクロックの影響を受けていたのは有名な話だ。日本でも、いま人気絶頂の「オリジナル・ラブ」の田島貴男をはじめ、十代のころパンクロックから音楽に親しみ、その後才能が花開いたミュージシャンは数多い。
残したアルバムは一枚だけ。活動したのは一九七六年から七八年の、わずか二年間。二十歳前後の四人によって生まれ、花火のように散ったこのグループは、膨大な数の「子種」を世界中にばらまいて行ったのだ。

それでは、なぜピストルズはそれほど強い影響力を持ち得たのか。それほどの独創性が彼らの音楽にあったのか。
答えはノーだ。音楽にもファッションにも、ピストルズ自身にオリジナルなものはほとんどなかった。それなのに、大きな影響力を持ったのは、新聞やテレビなどマスメディアの影響力を巧みに利用し、単なるアングラ音楽を社会現象にまで膨らませることに成功したからにすぎない。
それでは、当時のマスメディア対策の仕掛人にご登場願おう。名前はマルコム・マクラーレン。一九四六年生まれ。七〇年代、ピストルズのマネージャーだった男である。彼の結論は単純明快だ。
「メディアは我々の協力者であり恋人であった。要するにピストルズの成功はメディアのおかげだった」(ジョン・サベージ著『イングランズ・ドリーミング』)。

話は一九七四年にさかのぼる。
ロンドンのファッション街・キングス・ロードでブティックを営んでいた彼は、半年間のニューヨーク滞在から戻ってきたばかりだった。自分の服の売り込みに行ったニューヨークで、彼はケバケバ化粧バンドの元祖ニューヨーク・ドールズと出会った。このバンドに自分の衣装を売り込み、バンドと一緒に有名人になって味をしめたマクラーレンは、ロンドンでもそれを再現しようともくろむ。
自分の店に出入りしていた二十歳前後の連中で、盗んだ楽器でバンドをやっていた失業者や電気技師の三人組がいた。彼らに、かねて目をつけていた危ない目つきの男をボーカルとして紹介(もちろん歌手の経験は皆無)。バンドを一緒にやるよう、渋る一同の尻を叩いた。この四人目の男ジョン・ライドンの汚い歯を見て、彼にジョニー・ロットン(虫歯のジョニー)という芸名を付けたのも、マクラーレンだ。
SMファッションやポルノ写真のプリントTシャツを店で売っていた彼は、自分の店の名前「セックス」にちなんで「セックス・ピストルズ」と名乗るようバンドに強要。メンバーには商品の衣装を着せた。ピストルズを店の宣伝としか考えていなかったのである。こうして、ピストルズが初めて人前で演奏したのは七五年十一月である。
マクラーレンは、四人がやる音楽には無関心だった。有名になれればよかったのである。彼は当時のことをこう語っている。
「俺は彼らがベイ・シティ・ローラーズになれるはずだと分かっていた」(前掲書)

ピストルズを「パンクロックの元祖」「パンクの創始者」と呼ぶ日本人が時々いるが、それは誤解である。後に「パンクロック」と分類される音楽は、ロンドンより先にニューヨークで始まっていた。ラモーンズ、テレビジョン、ハートブレイカーズ、リチャード・ヘル、モダーンラバーズといった面々である。 マクラーレンは、NYから持ち帰ったバンドのポスターを練習中のピストルズのメンバーに見せた。そこにはテレビジョンの曲『空っぽの世代』が書かれていた。そこからアイディアを得て『ホントに空虚』という曲ができた。ベーシストだったグレン・マトロックは、回想録「オレはセックス・ピストルズだった」(音楽之友社)の中でそう語っている。
荒々しく歪んだギター。一直線に疾走するリズム。反社会的・反道徳的・反体制的な歌詞。こうしたパンクロックの特徴は、すべて六十年代末、カウンターカルチャーとベトナム反戦運動で混沌としていたころアメリカで生まれた音楽が雛形である。ストゥージズ、ベルベット・アンダーグラウンドなど。特にストゥージズはピストルズのギタリスト、スティーブ・ジョーンズのお気に入りだった。要するに、ピストルズは曲に限っていえば米国のモノ真似であって、それほど革新的でも何でもなかったのである。
パンク・ファッションと呼ばれるファッションについても、そうだ。ツンツンに突き立てた髪、破れたTシャツに安全ピン、といういでたちを最初に考えたのは、前述の米国人R・ヘルである。それをイギリスに持ち込んだのがマクラーレンだった。

が、ピストルズの四人はマクラーレンの想像以上に才能があった。特にロットンの書いた歌詞は強烈だった。極めつけは「アナーキー・イン・ザ・UK」と「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」の二曲だ。前者は「オレは反キリストで無政府主義者」と宣言し「破壊せよ!」と歌う。後者はイギリス国歌そのまんまのタイトルに「女王様は人間じゃない」「イギリスに未来なんてない」「ファシスト政府のおかげでみんなすっかりアホ状態」と罵詈雑言を並べ「女王陛下万歳!」と皮肉る。しかし、この時点でピストルズはまだ一部の若者だけが知る、新手のアングラバンドでしかなかった。七六年一二月一日の夜までは。
マスコミを利用したキャンペーンは、偶然始まった。その夜、テレビのトーク生番組に出演したピストルズは、客席の女性をナンパしようとした司会者に激怒。さらに司会者に挑発され「アホ」「スケベじじい」「くそったれ野郎」など放送禁止用語を連発。
英国は、公の場での性表現に極めてうるさいピューリタン文化の国である。たった二〇秒ほどの出来事だったが、夜六時半のゴールデンタイムだったことから、怒りの電話がテレビ局に殺到。大衆紙が一斉に噛みついた。「下劣なテレビ会話に怒り」「パンクロックグループ、テレビで怒涛の四文字言葉」など。
「あの日から、すっかり変わっちまった。それまでただの音楽だったのが、一晩でメディアそのものになった」(ジョーンズ)
「マスコミを動かすネタ作りをしなくても待っているだけで良かったのだから、千載一遇のチャンスだった。マルコムはそれを最大限に活用する術を知っていた」(マトロック)
それ以降、ピストルズを追い回すタブロイド紙の記者の集団を仕切るのがマクラーレンの仕事になった。毎日、紙面はピストルズネタが満載。が、内容はあきれるほどくだらないものがほとんどだ。
「ベーシスト、インタビュー中にゲップする」(欧米ではゲップはオナラより不作法とされる)「ピストルズ、空港で酔ってゲロを吐く」(これは虚報らしい)。ヤラセもしょっちゅうだった。記者が「弁償するから植木鉢を投げてくれ」とけしかける。じゃあ、と投げると翌日「ピストルズ、ホテルのロビーで植木鉢を投げる乱暴狼藉」と見出が踊る、という有り様だった。

マクラーレンのマスコミ誘導作戦は、さらにエスカレートした。バッキンガム宮殿正面にしつらえた即席会見場でレコード会社との契約書にサイン。テレビや新聞に絵を撮らせる。典型的なメディア・イベントである。「ゴッド・セイブ・ザークィーン」が放送禁止になるも一向にめげず、七七年六月七日の戴冠記念日にはテムズ川にボート「クィーン・エリザベス号」を浮かべて、その上で演奏。国会議事堂に向けて、大音量で「アナーキー・イン・ザUK」を鳴らした。桟橋に着くなり待ち構えた警官隊が船に突入、大乱闘。また格好の新聞ダネになった。
「体制に反抗する無頼の若者」といったパンクに付随するイメージの多くは、こうしたマスコミ誘導で作られたものだ。おかげで、ピストルズの知名度は抜群に上がり、放送禁止にもかかわらずレコードは売れに売れた。シングル盤「ゴッド・セイブ・ザークィーン」が出たのは、おりしもエリザベス女王の戴冠二十五周年記念日の直前。この曲は英国チャート二位のヒットになった。アルバム「ネバーマインド・ザ・ボロックス」(邦題『勝手にしやがれ』)はついに一位に輝いた。

反面、顔が売れることによるマイナスも大きかった。レコード会社EMIは反響の大きさに怖じ気付き、契約を破棄。レコード工場やトラック組合がレコードのプレスや機材の運搬をボイコット。ホールはコンサート会場としての使用を拒否。政治家がピストルズを名指しで「社会の敵」と非難する、イギリス社会上げての大騒ぎになった。メンバーが街で暴漢に襲われ、ナイフで刺される、鉄パイプで殴られるなどの暴力沙汰が頻発するようになったのも、このころだ。 が、ピストルズはフツーの兄ちゃんの集団にすぎなかった。S・ジョーンズのコメントは単純明快である。
「自分の国の首相の名前も知らないのに、俺たちが政治的なわけないだろ?」(メロディ・メーカー紙七七年六月四日号)
同じころ、ジョン・ライドンは、マスコミと一般大衆に不信感を募らせていた。
「インタビューする方は書きたい事だけ書く。こっちはどうしようもないから、あきらめるしかないよ」
「読者なら、新聞が書いていることはウソ八百だと分かってくれると思ったのに、ダメなんだ。大衆のそういう態度には本当にショックを受けた。あまりに愚鈍だ」(同)
話は前後するが、ライドンがピストルズ解散後に作ったバンドは「大衆イメージ株式会社」という。強烈な皮肉である。彼が一貫して「客」に冷笑的な態度をとり続けているのは、このときの体験に原因があるに違いない。
活動がどん詰まりになったピストルズは、七八年一月の約二週間、米国へコンサートツアーに乗り込むが、どこも客は不入りのうえマスコミの評判は散々。それはそうだろう。ピストルズが「マスコミ有名人」のイギリスと違って、米国で彼らを報じていたメディアはほとんどなかたのだから(アルバムは米国チャート百六位という惨敗だった)。
起死回生のためマクラーレンは、抱腹絶倒のメディアイベントを考えた。六三年に百万ポンドを強奪し、ブラジルに逃亡していた強盗犯ロニー・ビッグスをゲストにレコードを作る、というのである。あまりのばかばかしさにライドンは一行から離脱。残りのメンバーはマクラーレンに従ってブラジルへ行ったため、バンドは解散してしまった。

このマスコミが作り上げた虚像が、イギリス以外の国では「伝説」へと変貌した。当時、日本では音楽誌だけでなく一般マスコミもヒッピーに続く「若者反抗文化」「ファッション」としてパンクに飛びついた。真っ先に反応したのは「平凡パンチ」「週刊明星」「女性セブン」「女性自身」などの若者雑誌だ。パンクロックがあっという間に世界中に広まったのは、ファッションや文化と連結していたためなのだ。
対照的に、大手新聞は「事件」としてのみピストルズを報道した。朝日新聞がピストルズを初めて取り上げるのは七七年九月二十一日。「ゴッド・セイブ・ザークィーン」が民放連の「要注意歌謡曲」に指定された、という内容だ。その後「パンクの元祖解散」(七八年一月二十一日外報面)「メンバーのビシャス麻薬中毒死」(七九年二月三日社会面)。
ところが、九六年の再結成になると扱いがばかでかくなる。再結成発表のときは「完成させるオレたちのパンク」と、ロサンゼルス特派員電で夕刊三段抜き(六月二十五日)。九月五日付け朝刊に至っては、全面ぶち抜きで「大物バンド続々再営業・『ロックは死んだ』か」とマジメにバンド再結成の是非を論じている。解散後十八年で、ばらまいた「子種」が成長して神話化が進み、再結成というイベントにまんまと乗せられたというわけだ。
ピストルズがさんざん使った「悪いニュースでマスコミを誘導し、人気を押し上げる」という手法は今も生きている。ヌード写真集を売りまくったマドンナはその道の達人だし、松田聖子の離婚発表も、その文脈で考えると分かりやすい。

さてここで、最初の武道館での話に戻る。僕が仰天したのは、ステージの背景いっぱいに拡大された新聞の見出しだった。
「パンクロックだって?そんなのただの下劣な金儲けさ!」
それは、かつてピストルズを伝説化した大衆紙の紙面をそのまま拝借したものだった。「下劣な金儲け」とは、再結成ピストルズの世界ツアーのタイトルなのだ。つまり「これはメディア・イベントです」と、堂々と客に宣言してカネを取っているのだ。
再結成の場にもうマクラーレンはいない。要するに、この再結成ツアーはマクラーレンの手法を学んだ今や四十歳のメンバーたちが、ネタをばらしつつ同じことをやって回っているようなものなのだ。そう言えば、こんなことを書いている僕も、まんまと誘導されたマスコミの一人というわけか。




up.gif (380bytes)

home.gif (613bytes)


u_han.gif (685bytes)
Copyright(C) 1997 Hiromichi UGAYA.