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本当は怖い「健康いまいち症候群」約四割が心因性患者
頭痛、下痢、目眩。病気というほどじゃないが、小さな不快感を抱える人々が増えている。ストレスなどによる心の病を疑うべきだが、臓器別に細分化する日本の医療は心もとない。


 

  食欲が落ちた。ついこのあいだまで大盛りライスを平らげていた、職場に届く出前弁当を見るのもいやになった。


 最初、A氏(40)の体に現れた症状は、そんな些細なことだった。
 もともとは「健康そのもの」だった。そんな誰もがそうであるように、彼もそれが「病気」だとは思わなかった。仕事のしすぎで体に無理が来たのかもしれない。そう思って自宅近くの大学病院に足を運び、胃カメラを呑んだ。案の定、医師は「単なる胃炎ですね」と言った。


 ○病気と健康の境目状態
 薬をもらって飲む。が、一向に良くならない。体がだるくて何をするのも億劫だ。そんな自覚はあるものの、高熱を出したり、激痛でぶっ倒れたりするような激しい症状があるわけではない。重篤な「病気」でもないなら、仕事を休むわけにもいかない。そうこうするうちに三カ月近くが過ぎた。


 勤務先の産業医に相談したことがきっかけで、A氏の症状は体ではなく心の病「鬱」の現れであることが分かる。専門医は診察したとたん「一カ月休みなさい。これは命令です」と断じた。それ以来、回復までに数カ月単位の自宅療養・入院が合計三回必要だった。


 勤務先の家電メーカーでは、入社以来ずっと営業に携わってきた。思えば「仕事が楽しくて仕方がない」という毎日に食欲不振という小さな変化が現れたのは、外回りの仕事からパンフレットや店頭展示物の企画に変わった前後だった。


 パソコンが大の苦手なのに、印刷物のDTP入稿やプレゼンの資料作りでソフトの勉強に追いまくられる。担当するAV製品も、パソコンとの接続が普及して覚えるべき知識は複雑を極めた。が、新製品は次々に出る。息をつく暇もない。一方若い後輩は楽々とパソコンをこなしている。焦る。だんだん販売店に説明に出かけるのが怖くなってきた。最終的に勤務に復帰できたのは、営業を離れ総務系の仕事に変わってからだった。


 病気と呼ぶほどではないが、不快感がずっと抜けず、爽快感がない。ところが医者にかかると体の異常は見つからず「どこも悪くありません」と言われる。そんなA氏のような「病気」と「健康」の境目のような状態を、メンタルヘルス総合研究所の久保田浩也代表は「健康いまいち」状態と呼んでいる。


 ○二百種類以上を分類
 久保田氏は、病気に段階があるように、健康にもランクを付けて考えることを提唱する。例えば「病気」には、集中治療の必要な「重態」、入院の必要な「重症」、通院で済む「軽症」と三段階がある。
 一方「健康」の三ランクとはこうだ。まったく不調感のない「爽快」状態。不調感はあるが気にならない「まあまあ」状態。そして、気になる不調感のある「健康いまいち」状態だ。難しく表現すると「日常的不調感」とも言える。


 胃腸の異常は代表的な例だ。例えば、通勤電車で何回も下車してトイレに駆け込まなくてはいけない下痢に悩まされる会社員。調べても胃腸そのものに異常はない。教室に入るとお腹にガスがたまる女子高校生の例もある。ガスを出さないとお腹が苦しくてたまらないが、匂いや音に気付かれるのが嫌だ。そこで席を最後列にしてほしいのだが、そんな症状が他の生徒に知られるのも恥ずかしい。それで悩むうちに、とうとう休学することになった。


 他にも、肩凝り、頭痛、動悸、目眩、不眠、便秘。「健康いまいち」の症状は、一般人が想像するよりはるかに種類が多い。久保田氏は、その大半が心因性ではないかと考え、日本心身医学会の定義する「心身症」二百種類以上を「健康いまいち」の症状として分類している。その中には、喘息、胃腸の炎症や潰瘍、アトピー性皮膚炎、腰痛、インポテンス、月経痛、アレルギー性鼻炎なども入っている。


 ○ドクター・ショッピング
 こうした「健康いまいち」に悩む人は、病院をあちこち行ったり来たりすることが多い。後で詳しく述べるが「健康いまいち」には心因性、つまりストレスなど心の要因が絡んでいることが多いので、臓器や身体をいくら調べても症状を起こす原因が見つからないからだ。専門家は「ドクター・ショッピング」と呼ぶ。


 B氏(40)もそうだった。現れた症状は、激しい動悸と発汗。それも地下鉄の中で始まった。七年前の冬、座席でうたた寝をしていたときのことだ。突然、心臓が激しく打ち始めた。どんどん荒くなる呼吸。顔からは滴るほどの汗。まるで全力疾走した後のようだった。車両を降り改札口までたどり着いたとたん意識を失った。


 救急車で運ばれた病院で、点滴を打ち二時間ほど寝ると、どうにか自力で歩けるようになった。ところが、帰りに地下鉄に乗ると、また同じ症状。再び倒れて、一日に二回、救急車で運ばれた。


 脳の異常か、心臓の病気か。X線、心電図、脳波、CTスキャン。自宅近くの病院に行って徹底的に検査したが、結果は「器質的な異常なし」。念のために大学病院で念入りな検査を受けても、診断は同じだった。
 そのうちに、友人との飲み会の席でも同じ症状が出てトイレで動けなくなったり、地下鉄に乗るだけで動悸が激しくなるまでになった。いつ症状が出るかと車の運転もできない。緊張や不安で不眠がひどくなった。


 それから一年間余りに、数軒の病院や診療所を訪ね歩いたB氏は、自分の症状が最近病気として認知され始めた「パニック障害」だと知る。どうやら心因性らしいが、原因ははっきりしない。


 医師は「ゆっくり休みなさい」と言う。が、当時は九年間働いた勤め先を辞め、友人と教育関係の会社を興したばかりで休めない。抗鬱剤らしき薬をくれるが、飲むと意識がとろんとして思考能力が低下してしまう。保険が利かず治療費が三カ月で五十万円にも嵩んだこともある。発作が怖くて家から出ることができず、一年で経営から降りた。結局仕事に復帰するには四年かかった。快方に向かったのは、治療法を探し歩くうちに、漢方療法を組み合わせた精神科医に巡り合ってからだ。


 「結局、西洋医学は薬を処方するだけの対症療法だった」


 B氏はそう振り返る。


 ここに驚くべき調査結果がある。


 川崎医大総合診療部の津田司教授が同大に初診で訪れた患者約二千百人を調べたところ、約三六%にあたる七百四十二人が心身医学的な病気だった。風邪の何と二倍である。しかも、うち五百四十七人は肉体的には全く異常がないのに腹痛や頭痛を訴えていた。


 調査結果が発表されたのは九四年だが、この三六%という割合はコンスタントにほぼ変わらないと津田教授は話す。欧米の報告でもほぼ同じ数字だそうだ。


 ○専門外には興味を失う
 つまり、A氏やB氏のように心因性で「健康いまいち」状態になる人は、風邪引きより珍しくないということになる。病院へ行く人の半分近くがそうなのだ。ところが、それを診断・治療する医療体制はまったくお寒い状態なのだ。


 「医師は体の病気を判別する訓練を受けた人がほとんどで、心因性の病気を見分ける訓練はまだまだです。患者は検査を受けても体に異常がないから、あちこち医者を訪ねるうちに症状が悪化する」(津田教授)


 例えばある人が下痢をした場合、それが胃腸の異常なのか心因性なのか、本人は分からないまま内科なり胃腸科に行くのが普通だろう。もし心因性なら、心療内科なり精神科の専門医に紹介してくれれば問題ないのだが、前述のA・B氏などの話を聞くと、実際にはそううまくはいっていないようだ。


 「医師の専門性は非常に狭いのです」


 京大医学部総合診療部の福井次矢教授はそう指摘する。


「内科でも心臓だけ、しかも冠状動脈だけ、というふうに医師の専門分野は臓器別に細分化している。『そのうち右耳と左耳の専門医に分かれるんじゃないか』というジョークがあるくらいです」


 自分の専門分野の患者が来ると一生懸命診察するが、そうでないと興味を失う。本当は心因性の可能性を考えながら診察しなくてはいけないのだが、専門外のことはどう対処していいのか分からない。実情はそんなものらしい。


 ○PC部門は95年以降
 日本では、医学部を卒業し国家試験に合格した後は、外科なり内科なり特定の診療科目を専門として選ぶのが普通だ。それを超えて複数の診療科目を跨いで学ぶことはまずない。例えば内科医なら、他の診療科目である精神科の知識を期待するのは難しい。


 初診段階の患者の病因を診断して専門医につなぐ医療分野を「プライマリー・ケア」(PC)と言う。基本的には内科医だが、目、鼻、耳や皮膚などの簡単な治療もする。ハーバード大やコロンビア大で研修した福井教授によると、米国では初診の九〇%はこのPC医が診る。人員も手厚く、例えばカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校では、三百人の内科スタッフのうち七十五人がPC担当だ。


 もちろん、日本の医療界にもPCはある。実は、患者には分かりづらい名前だが、福井教授や津田教授の担当する「総合診療部」がそうだ。


 が、全国の大学付属病院でPC部門を開く流れが本格化するのは九〇年代、それも九五年以降のことにすぎない。現在でも、約八十ある大学医学部のうちPC部門を持つのはたったの三十でしかない(福井教授による)。医師の教育機関である大学でさえこうなのだから、まして一般病院は推して知るべしである。


 「(PC部門を)開いても、できたばかりでまだ何をしていいのかも分からない所が多い。教員をトレーニングするシステムさえできてない」


 津田教授はそう指摘する。同教授は、二〇〇一年を目標に、学会の自主基準としてPCの「認定医」制度を立ち上げる準備をしている。四年間の研修とテストを経て、PCの診断技能を持つ医師を養成する試みだ。が、軌道に乗るにはあと五年かそれ以上かかる、というのが同教授の見通しである。


 裏返して言うと、これまで日本の医療界は、四割を占める心因性の患者を正しく診断するシステムを持っていなかったということだ。何とも心細い話である。

(アエラ 2000年01月10日)