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■「週刊現代」に掲載された記事について■

 


  2003年7月7日発売の『週刊現代』(03年7月19日号)が、ぼくがこのウエブに書いた「なぜ朝日新聞社を辞めたのか」について2ページの記事にしている。ため息が出た。ただでさえぼくは、朝日労組役員解任事件が週刊現代に出た時に「タレ込み犯」として無実の罪を着せられたのである(『なぜ朝日新聞社を辞めたのか・その2』を参照)。そこへ来てまた今回の記事だ。これでは前回の濡れ衣も、本当にぼくがタレ込み犯だったように見えてしまうではないか。困ったことだ。


 それだけではない。これで、ぼくのことを「ほれ見ろ、やっぱり烏賀陽は週刊現代とツルんでいるんだ」とネガティブ・キャンペーンに走る人が必ず出てくる。ぼく、あるいはぼくの言葉を葬ればそれで一件落着と、朝日の改革に幕を引こうとする人たちは胸をなで下ろすだろう。「裏切り者に耳を貸すな」と、改革に立ち上がろうとしている人たちを押さえつける口実にも使われる。せっかく何かしようという気になっていた人だって、腰が引けるだろう。これでは朝日社内の特権集団を利するばかりではないか。偶然にしても、かなわん。まったく「やれやれ」である。


 そもそも、ぼくは『週刊現代』の取材要請を断っているのだ。


 「週刊現代」編集部から取材を依頼するメールが来たのは7月1日の夕方である。ウエブで文章を公開してから18時間後だった。文面は次の通りである。


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差出人: 阪神虎男 <t-hanshin@wgendai.gr.jp>
宛先 : 烏賀陽 弘道
送信日時 : 2003年 7月 1日 火曜日 6:18 PM
件名 : 取材のお願い
烏賀陽弘道様

突然メールをお送りする失礼をお許しください。


私は、講談社週刊現代編集部の編集部員をしております阪神虎男と申します。突然で恐れ入りますが、ひとつお話を伺いたいことがございまして連絡を差し上げました。


このたび、烏賀陽様の個人ホームページ「うがやジャーナル」上の、朝日新聞を退職されたいきさつや理由を説明しておられる文章を非常に興味深く拝見しました。今回小誌の記事として、この文章を紹介しつつ、気鋭の記者であった烏賀陽様が朝日新聞を退職された件を取り上げさせていただきたいと考えております。


つきましては、なぜこれを公開されたのか、その理由をご説明いただけませんでしょうか。


できましたら直接お目にかかって取材させていただきたいのですが、もしそれが難しいのであれば、電話あるいはメールでお話を伺うことができましたら幸いに存じます。週刊誌という媒体の性質上、慌しくて誠に恐れ入りますが、2日(水)の夜中までにお話を聞かせていただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

7月1日

講談社 週刊現代編集部
阪神虎男(注:これは仮名です。相手の名前はここで公開する意味がないので。念のため)


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  約1時間後、ぼくは返信のメールを打ち返して取材を断った。その理由は週刊現代の誌面にも出ているが、刈り込まれているので、もう一度ここに原文を再録しておく。全然ニュアンスが違うように読めないだろうか。


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宛先 : Torao Hanshin<t-hanshin@wgendai.gr.jp>
件名 : Re: 取材のお願い

拝復 週刊現代編集部 阪神虎男さま


御メールを拝読いたしました。小生のホームページへのお立ち寄りに深謝いたします。また、小生のような一介の記者の退社にご関心をいただき、光栄の至りです。


さて、いただいた取材のご主旨については承知いたしました。しかし、誠に申し訳ないのですが、今回は御意に沿いかねることを申し上げねばなりません。


と申しますのは、以下の理由によります。


(1)そもそも当該の拙文は、小生が退社の理由を口頭でうまく説明できないため、文章に書いて考えを整理したパーソナルなものです。ウエブに公開した時点で、知るべき人々に内容は伝わったと考えます。小生としては、このうえ御誌の紙面を借りる形で公開を重ねる必要性を認めることができません。


(2)小生の退社は、在勤期間である17年間に蓄積された膨大な経験からの結論であり、それを週刊誌の記事という短いフォーマットで再現することは不可能です(小生も週刊誌記者でしたから分かります)。だからこそ、ウエブに原稿用紙40枚分の長文を費やしたわけで、これでもまだ書き尽くしたとは感じえません。


(3)また、文中にもある通り、小生は巷に氾濫する「朝日攻撃」を繰り返すために当該の拙文を書いたのではありません。週刊誌の短いフォーマットの中で小生の文意が過剰に簡略化、あるいは歪曲化され、ありきたりな朝日攻撃記事に矮小化されることを何よりも恐れます。ここで小生が書いたことは朝日のみならず、すべての日本のマスメディア(僭越ながら、御社も含まれます)に多かれ少なかれ共通した問題だと考えます。もし拙文に朝日について批判的な部分があるとするなら、それはその共通の問題を出版・報道にかかわるすべての人に考えてほしいという意図から発したものです。この意図だけは歪曲も矮小化もされたくありません。


(4)そもそも、小生の退社、あるいは当該の拙文が御誌の記事になるほどのニュース価値があるとは到底思えません。


以上、誠に恐れ入りますが、ご取材にご協力することはお断り申し上げます。記事の掲載についても、ご再考いただきますようお願い申し上げます。失礼、どうぞお許しください。


末筆ながら、貴誌の御発展を心よりお祈り申し上げます。


2003年7月1日
烏賀陽弘道拝


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 ぼくは退社を知らせるメールを友人約500人に送った。人生で一度あるかないかという転身を選んだのだから、当然の礼儀だと思う。出版・報道の仕事で長く生きてきた人間として、ほかの新聞社や出版社(『週刊現代』を発行する講談社も当然入っている)に勤める知人も多い。彼らにもメールは行っているはずだから、『週刊現代』編集部が知ることには何の不思議もない。実際、ぼくが出したメールが転送されたのか、ほかの週刊誌からも取材の依頼があったが、どれも断った。


 彼らが誌面に再現した「烏賀陽弘道が退職に至る顛末」は、ぼくの感じていること、考えたことよりずいぶん再生画面のドットが荒い。例えが悪くて恐縮だが、アダルトビデオのモザイクがけ画面を見ているようで、本当は何が映っているのか、読んだ人はよくわからないだろう。


 ぼくは見出しにあるように「さらば」と胸を張って退社したわけではない。自責と罪悪感にウジウジと悩みながら退場したのだ。ベトナム戦争の最前線で、明日決死の突撃をかけるという日に、徴兵期限が切れて帰国する兵士のような気持ちなのだ。戦友もまだたくさんあの戦場に残っているのだ。読者に対しても不作為の罪を犯したようで、申し訳なくて、居ても立ってもいられないのだ。「申し訳ありませんが、出ていきます。さようなら」「長い間ありがとうございました。でも、もう居つづけることができません。お許しください」と頭を下げつつ出てきたのだ。


 また、個人的な決断としても、かつて自分が「どうしてもこの会社で働きたい」と決め、17年間も心血を注いで働いた組織を去ることは、ぼくを悩ませずにはいられない。そこには、自責、罪悪感といった自分を押し戻そうとする気持ちと、それでも自分の人生を前に進めたい、人生をよりよくしたいという気持ちが葛藤して、今も溶岩が海に流れ込むように激しく心を揺さぶっている。ずっとそうだったし、現実に辞めてしまった今もそうだ。


 こうした動機、経緯、感情はまるで精緻な銀細工にも似ていて、ぼく自身いくら筆を尽くしても書き尽くしたという感じがしない。まして週刊誌のモザイクがけ画面みたいな荒い画像で再生してもらっても、再現できるわけがない。


 とはいえ、これは『週刊現代』編集部が能力が低いとか理解が足りないとかの問題ではない。週刊誌の紙数、見出しの付け方など、日本の週刊誌のフォーマット(製品規格)の問題なのだ。これはぼくもかつて週刊誌記者だったからよくわかる。


 「朝日を辞めた人間がいる」→「しかも朝日を批判する文章を書いて公開している」→「しかも朝日内部の人間しか知り得ない具体的な話が出ている」→「しかもそれが金銭などの不正にかかわる事象である」となれば、彼らは彼らなりの「ニュース・ストーリー」を描く。そのストーリーは事実によって構成されてはいるが、現実よりはるかに単純化され、場合によっては矮小化され、ステレオタイプ化されている。なぜそうなるかといえば、彼らが目指す最終プロダクトの製品規格は決まっているからだ(雑誌ごとにどんなフォーマットがあるかはここで論ずるにはあまりに大きな問題なので、また別の機会に譲る)。


 ニュース週刊誌にすれば、海外出張に行く部下にワインを買わせていた編集長や、会社のハイヤーで奥様と食事に出かける「天声人語子」の話はすぐにでも飛びつきたい話だろう。そう、ぼくの退社なんてニュース価値はないのだ。週刊現代がほしかったのは、朝日インサイダーの話なのだろう。しかも引用さえすれば、朝日から苦情が来ても「あれは烏賀陽さんが書いたものを引用しただけです」と自己弁護できるから、もうこれは飛びつかない選択肢はない(ぼくが取材者ならただちに着手するでしょう)。


 が、ぼくにとっては彼らは「17年の間に自分が朝日に倦んだ莫大な数のエピソードのひとつ」にすぎない。ああいうわかりやすい愚行をしでかす人たちはまだ害が少ないのだ。害悪がひどくなった段階で切ればいいのだから。もっと致命的なのは、そんな「なさざるべきをする」少数ではなく、その愚行に感染して「なすべきことをしなくなる」多数なのだ(これは本稿でもさんざん書いたのでこれ以上は繰り返さない)。そういう慢性病のようにじわじわと進む病理は、週刊誌だろうと新聞だろうと、なかなか記事にしづらい。日本の週刊誌・新聞の製品規格は、もっと突発的な「事件」に合わせて設計されている。


 他人が書いた自分のことというものは、どんな形であれ違和感が消えない。今回もそうだ。「誤解でない理解はない」という名言をしみじみ味わうのはこんな時である。「なぜ朝日新聞社を辞めたのか」で書ききれなかったことは、いつか稿を改めるつもりだ。自分のペンで、それも、こんな短い形ではなく。


(注)とはいえ、ウエブで公開された文章はすでに「公」(おおやけ)のものであって、それを記事にするなとまではぼくは言えない。ぼくが自分の書いたものをウエブなり出版物なりで公にする権利があるように、週刊現代にもぼくのことを記事にする権利はある。それは認める。「言論の自由」を保障する社会に生きる市民として、自分の権利は行使して、他人の権利は認めないというわけには、いかないのだ。


 やれやれ。こんなゴタゴタは早く片づけて、自分の書くべきことを思い切り書きたいなあ。


 以上、取り急ぎ。

(030708)

 





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