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今回はもう少し細かい、というか具体的な話を書こう。ぼくが会社にいることがつらくなったことのひとつに、上司や同僚の職業モラルが低下し切ったことがある。その惨状は、モラル・ハザードといってもいいかもしれない。そのことについて書いておく。
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本題に入る前にちょっと一言。前項では「上層部」に人的資源を育てる意志がないこと、改革の意志がないことなどに触れたが、ぼくがいう「上層部」とは社長とか取締役とかのみなさんのことではない。ぼくのような末端の人間は、そういう人たちと仕事をしたことがない、あるいは彼らの判断が仕事に直接及んできた(記事をボツにされたとか、左遷されたとか)ことがないので、彼らがどういう人間で、どういう価値観で動いているのか、わからないのだ。
ぼくは自分で経験したことでなければ責任を持てないので、アサヒの経営方針がドウした論調がコウしたなんて大所高所の話は書けない。ぼくはそれよりずっとシモジモの人間、下から数えて何番目なのだ(というか、副編集長なんてヒラのひとつ上だ)。社員が6500人もいるのだから、取締役の人たちなんて顔もよく知らない。ぼくは現場にいた感触しか書けないし、それだけを書くことにする。ぼくにとっての「上層部」とは、雑誌や新聞の現場に直接の指揮権を持つ「部長」〜「局長」の人たちだ。
もうひとつだけついでに断っておく。ぼくが仕事を共にしたことがあるのは、新聞を作るセクションである「編集局」と、雑誌・書籍のセクションである「出版局」(現在は出版本部になった)のふたつしかない。日常的に話をしたりその行状を見聞きしたりするのも、この二セクションに勤務する人々がほとんどである。だから、広告局や販売局、総務局に勤める人たちがどんな仕事ぶりなのかは、ここで何かを記すほどの材料を持ち合わせていない。とうわけで、以下の話は、新聞・雑誌セクションの現場の話だと思ってほしい。
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最初に、朝日新聞社の役職構成について注釈を加えておく。
まずヒラのすぐ上には「次長」と呼ばれる人たちがいる。新聞なら「デスク」、雑誌なら「副編集長」と呼ばれる人たちで、朝日の年功序列人事では、年齢は30代後半から40代前半。ぼくもこの下辺にいた。エラそうに聞こえるが、何のことはない、ヒラのひとつ上でしかない。要するに、朝日新聞社の記者になると、30代後半までずっとヒラで、それから少数だけに「××長」という肩書きがつく仕組みだ(取材記者はただ単に『記者』というだけで仕事は成立する。そういう意味では、検事とか弁護士とかに似たプロフェッションなので、役職なんて必要ないのだけれど)。次長までは人事権もないし、予算権もない。会社の中では「管理職見習い」みたいなものだ。
その上が、冒頭に書いた「部長」。40代後半から50代前半くらいで「所属長」とか「管理職」とか、あるいはただ単に「部長」とも呼ばれる。新聞なら「社会部長」「政治部長」「経済部長」がそれだし、雑誌だと「編集長」がこれにあたる。その直下には「××代理」「××補佐」とつく人々もいるが、これは「次長」→「部長」のつなぎみたいなもの。アエラにも「編集長代理」というポストがあるが、なくても編集部の仕事は回るポストである。何度も廃止されるという話が出ては消えた。この年代はポスト数より社員数が上回っているので、ポストがないと役職のないオジサンから文句が出るのだろう。
この「部長」以上が要注意である。おおざっぱに言ってしまうと、朝日新聞社の社員は、2種類に分かれるといえるだろう。部長以上の人たちと、それ以下である。「部長以上の人たち」が「部長以下」と違うのは、以下に挙げる大きな「権力」を持っているからである。
(1)編集権=どんなネタを採用し掲載するかを決める。また、筆者の同意なしに記事を書き換える権限もある。
(2)人事権
(3)予算執行権=取材経費はもちろん、飲み食い、携帯電話の貸与などフリンジ・ベネフィットを含む。
つまり、記事の「ボツ」や書き換え、転勤や配置換え(人事異動)を決めることができる。気に入らないヤツのネタをはねつけたり、本人の同意なしに批判記事をトーンダウンしたり、その人間を閑職に飛ばすことも彼らの腹ひとつである。つまり彼らには人を屈服させうる「権力」がある。しかも恐ろしいことに、この権力行使には明文化された規則がない。あくまで主観的、属人的な判断に委ねられている。だから、前の編集長がボツにした記事が、交代した新編集長のもとで復活したことも、実際にあった。「好き嫌い」で決めているのか、何らかの合理的理由があるのか、問われることがない。裁判官に近い裁量といっていいだろう。
実際、部長職に就いたとたん、ウレシクてしょうがないのか、急にいばり始め、オモチャを買ってもらった幼児にように職権を振り回す人がけっこういた。どうひいき目に見ても実利のない(つまりやらなくてもいい)「紙面改革」や人事異動(担当替えなど)を一生懸命やり始めるである。また、顔はニコニコ、親しみやすい人柄を装いながら、裏ではさらに上のエライ人たちの意に沿うまま部下を無慈悲に扱うというタチの悪い人もいた。良心的な記者だった人も、部長職になったとたん、なぜかだいたい人格の悪い部分が出てしまう。権力を持つと人間の本性が出るというのは本当のようだ(なお、部長の上には「局長」「局長補佐」というがいる。こちらは50代前半から後半くらいだと思う)。
この「権力」を持っている部長職以上を目指すのが朝日新聞社でいう「出世コース」である。冗談のように聞こえるかもしれないが、この出世コースを目指す記者がけっこういる。これにはぼくも驚いた。「社長になる」とか新人記者のころから宣言している人までいて、現に編集局長くらいにはなっている。「権力者」を目指すのが彼らの人生の目標なのだから、ジャーナリズムは反権力であるべきだ、なんてこれっぽっちも思っていないのだろう。もし彼らが口でそう言っているなら、言動が矛盾しても平気なのだろう。あるいは、彼らは「権力」についてぼくには理解できない定義を持っているのだろう。それをいくら隠し、取り繕おうとしても、本物の権力を前にすると、素性がつい出てしまう。その結果は、記者クラブ制度の病弊としてあちこちで書かれているし、毎日の紙面にもわかりやすく出ているから、ここでは繰り返さない。
彼らはいい記者になりたいとか、いい記事を書いて読者の知る権利(これは憲法で保障された基本的人権なのだ)にこたえたいとか、そういう記者、ジャーナリストとしての職業的義務を果たすことが人生の目標ではないのだ。どうしてこういう人たちが「知る権利」を読者に変わって行使する、重要な職務に就いているのだろう。そういう職責を負わない商社かメーカーにでも就職して、思う存分出世競争に打ち込まなかったのだろう。まったく不思議だ。出世レース、権力ほしさに日々を送るような人は、新聞社などに入るべきではなかったのだ。残念なことに、そうした人が「上層部」のほとんどらしいのだが。
こうした新聞社内の上層部は権力だけあってチェック機能も明文化されたルールもないから、「絶対権力」に近いまま野放しである。絶対権力だから、絶対的に腐敗する。ぼくが絶句した例は、会社のカネでの飲み食いである。部長職以上は予算の執行を自分で承認する権限がある。つまり会社のカネで飲み食いしても、自分でハンコを押せばOKなのだ(事務はコンピュータ化されているのでハンコはいらないが)。これも部長職になりたがる人が多い理由かもしれない。
2000年のことだ。ぼくは当時アエラの編集部にいて、IT産業を特集する「アエラIT別冊」を作る仕事に専従していた。専従はぼくと朝日パソコン編集部から来た同僚二人だけ。つまり、二人のミニ編集部が立ち上がったということだ。別冊を一冊作れば閉店の編集部なので、予算もアエラ本体とは別に管理される。この別冊のために組まれた「経費」予算はたったの20万円だった。これで、20人以上いたフリーのライターやカメラマンの取材中の交通費や食事代をまかなわなくてはならない。非常にタイトである。ぼくと同僚は、経費を削るために必死で、文房具さえ節約に節約を重ねていた。
ところがある日、帳簿を点検していたぼくは愕然とした。ぼくも相棒も知らないうちに、20万円の経費のうち5万円以上が1ヶ月あまりの間に使い込まれていたのだ。しかも、経費請求者も決裁者も、同じアエラのS編集長(前章にも登場している)。会社の隣にある高級中華料理店で「フリーライター××氏との打ち合わせ」をしたほか数件、とある。が、あきれたことに、金額を計算すると、この「打ち合わせ」のために一人1万円以上も飲み食いしている計算になる。ぼくにはピンと来るものがあった。おそらくこの「打ち合わせ」は虚偽だろう。そんな飲み食いが数件、ぼくの作っていた貧乏な別冊の予算から盗まれているではないか。もちろん、アエラ本体には、はるかに巨額の経費予算が組まれているにもかかわらず、である。
ぼくは帳簿のコピーを取り(今でも持っている)、出版局長のところに行った。が、今度は局長の反応を聞いて全身の力が抜けた。彼はこう言ったのである。
「う〜ん、編集長はみんなそれ、やってるしなあ」。
当時、出版局は赤字が続いていて、この編集長も「経費削減」をことあるごとに叫んでいた。実際、カネがかかるから、という理由で海外取材が次々にボツにされ、アエラの編集部員は海外報道ネタはほとんど提案すらあきらめたような状態になっていた。そういう人間たちが、裏に回ると日常的に取材経費を使って飲み食いしているのだ。もうこうなると絶句するほかない。「倫理」「道徳」なんて言葉は、彼らの辞書にはないのだろう。
余談だが、このS編集長、局長から話が行ったのか、後でわざわざぼくのところへ来て「あれは了解を得た出費ですから」とニコニコしながら弁明していた。部長職である自分が承認しているのだから、内規上は何の問題もない。そりゃそうだろう。おかしかった。まあ、ぼくが上司に疎まれたのは、こういうことを知ってしまったからかもしれない。ぼくは彼らの秘密に触れてしまったのだ(このS編集長はその後順調に出世し、今では出版セクションのナンバー2である)。
が、彼らにすれば、たった5万円なんて、きっと氷山の一角にもならないゴミ粒のような話なのだろう。ぼくが予算を預かり、帳簿をチェックすることができたわずか1ヶ月間だけでも、使い込みが出てくるのだ。ぼくがそれを見つけたのは偶然なので、全容を調べ上げれば、もっとすごいにちがいない。
実際、98年まで週刊朝日の編集長だったM氏は、ワインの収集が趣味で、週刊朝日のグラビアを使って、世界のワインを訪ねて歩くシリーズ取材を部員にさせていた。無論、海外取材に行かせてもらうかわりに、部員はお土産のワインを買ってくることが暗黙の了解である(これも取材に行った編集部員から直接聞いた)。これは噂だが、彼の自宅にあるワインセラーにあるワインの大半は会社の経費で買ったものだそうだ。
(注:元週刊朝日編集長・森啓次郎氏からの抗議文と、その要求に基づく再調査の結果はこちら。下線部分に訂正あり)
「天声人語」の執筆者だったK氏は、東京・千駄木のフランス料理店にいつも社有の黒塗りのハイヤーで乗り付け、食事の間じゅう(3時間以上!)そのハイヤーを店の前で待たせていたそうだ。しかも、仕事で来ているのではなく、ご夫人と一緒においでになり、お食事を召し上がるのである。某デパートの買い物袋を持って。つまり完全な私用だ。それが毎週のようにあったという。こんな意地汚い感覚の人が「天声人語」を書いていたのだ。
この話は、このフランス料理店の店員に直接聞いた。ぼく自身も、彼がこのフランス料理店で奥様と食事をされているのを見たことがある。もちろん、店の外には緑ナンバーのハイヤーがとまっていた。そういうぼくが直接見聞した話しかここでは書いていない。そんな狭い範囲ですら、こういう話がごろごろ出てくるのだ。
ちなみに、ここの店員や客はこの黒塗りハイヤー夫婦が「天声人語」の執筆者であることを知っていて、みんなあきれ果てていた。本人はバレていないとでも思っていたのだろうか。読者をナメているとしか思えない(このレストランの店員で朝日の購読者はいなかっただろうな)。
強調しておくが、ぼくは彼らが飛び抜けて愚かだとは思わない。会社のカネで高級中華料理を食い、世界のワインを飲み、しかもハイヤーで送迎してもらえる。そこに何のチェックも入らない。しかも、同僚を見回せば、みんなそうしている。誰もとがめない(以前に同僚に聞いた話では、朝日新聞社全体のハイヤー・タクシー代は全社で一日に1200万円。一日です。一ヶ月ではありません)。並の神経の持ち主なら、誘惑に負け、感覚が歪むのが当たり前だ。彼らは普通の人並みに誘惑に弱く、愚かなだけである。
誰も見てないところであっても、自分の行動を律することができることが「大人」だと思う。そういう意味では、朝日新聞社の上層部は、大半が、そういう職業的自覚に乏しい、いつまでたっても大人に成りきれない人々によって出来上がっている。人間として凡庸なのである。そういう意味では、朝日新聞社といってもほかの日本の腐敗した組織と差はないし、その程度の人々の集まりなのだ(そういう集団が日本の言論機関の主翼を担っているというのは民主主義にとって不幸極まる事態だが、それはあまりに大きな問題であり、朝日新聞社だけの問題でもないので、ここでは論じない)。
そして、そういう無自覚な凡人が、誘惑の中で自らを特権階級だと錯覚するのも人間の弱さという点では自然の流れである。前章で書いたが、特権階級は既得権を手放すことを恐れ、改革から逃げる。それ以前に、ぬくぬくとした厚遇に脳がふやけ、現状がいつまでも変わらないことを願う。なにしろ、現状があまりに快適で、それ以外に望むものは何もないのだ。現状が変わってもらっては困るのだ。こんな人間たちに自己改革を期待しても、百年河清を待つが如しである。実際、記者クラブ制度にせよ、犯罪報道の人権侵害にせよ、ぼくが入社する前に80年代前半から批判されていることが、まったく改善されないのだ(松本サリン事件でこの愚行が繰り返されたことが、ぼくにはショックだった)。20年かけても変わらなければ、何らかの破局を迎えるまで変わりはしない。ぼくが「この組織はいつまでたっても変わらないだろう」とあきらめた大きな理由がこれである。
なお、例え批判のためであっても、朝日新聞社の社員を「エリート」と呼ぶのは間違っている。やめたほうがいい。彼らは、欧米の本物のエリートに比べると出自も人間性もあまりに矮小で、その名に値しないこと、そして、上に述べたような卑しい金銭感覚と、人間的浅薄さ(誘惑に弱いことなど)を、自分でもよく知っている。だからむしろ、彼らは「エリート」と呼ばれたがり、自分たちが「エリート」だと錯覚したがっている。「エリート」と批判されればされるほど「あ、僕たちはやっぱりエリートなんだ」と喜ぶ。「エリート」としての義務を果たしているかのように勘違いし、喜び、増長していく。「我々は批判されている→エリートは批判されるものだ→よって我々はエリートだ→よって特権を行使できる→よって特権を変える必要はない」と奇怪極まる、ねじれ切った解釈をやり始める。それくらい現実認識が歪んでいるのだ。週刊誌の朝日批判記事を彼らが喜んで読む(朝日批判の記事が出た週刊誌は、社内の書店ではすぐに売り切れる)のは、別に彼らがマゾヒストだからではない(そういう人もいるかもしれないけれど)。自分たちが雑誌に取り上げてもらえるような「エリート」であることが確認できて、ウレシクてウレシクて仕方ないのである。だから、ぼくは週刊誌の朝日批判記事が「天下の朝日新聞」とか「エリート集団」とか書いているのを見るたびに、ため息が出る。それこそ、彼らが待ち望んでいた言葉なのだ。
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上層部が腐敗しているだけなら、まだいい。彼らがトシを取っていなくなってくれれば、まだ状況は改善の希望がある。ぼくがもっとも暗澹たる思いにとらわれたのは、5年ほど上の先輩、同年代の同僚、30代の後輩といった自分のすぐ上下の層から「自分の仕事をより良くしよう」「よりよい記事を書こう」「自分の職業的能力を向上させよう」「ベターな仕事環境を作ろう」という向上心が、ごく少数の例外を除いて死滅してしまったことだ。若い世代がこれでは、いつまで経っても組織に変化など訪れない。「明日は今日よりベターな仕事をしたい」という気持ちがなければ、明日も今日と同じ日が来るのは明白ではないか。これほど組織の未来への希望を奪う現象もない。
ノーチェックの権力と既得権益にどっぷりつかった上層部が堕落していくのは、まあ分かる。が、こういう腐敗・堕落というのは、まるでカビか病原菌のように伝染し、組織全体を冒していくものなのだ。その上層部を見た若い層が「あんなもんでいいんだ」とマネを始めるのである。先に述べたような卑しい金銭感覚、前章の大学院留学のところで書いたような無教養ぶり、権力にすぐ屈服する矮小さ、誘惑にすぐ負ける人間的愚かさ、それをゴマかす二枚舌、すべて下はよく見て、知っている。彼らを監督し、指導すべき人間の大半が、それに値するプロ意識など持ち合わせていないことを。
権力のない彼らは、人事考課には敏感である。上層部がどんな価値基準の持ち主かよく見ているので、その反感を買うようなことはしない。たまにぼくのようなお構いなしというか無関心な人間が、無鉄砲なことを言い出すのだが、後からよく考えると、他の若い同僚たちはよく知っていたのだ。そんなことを言い出せば上層部の反感を買い、人事で不利な扱いをされることを。だから黙って見て見ぬふりをする。また、どういうことをすれば上層部が喜ぶか知っているから、出世というエサ(特派員にしてやるとか、××クラブキャップにしてやるとか)をぶら下げられると、命じられたわけでもないのに、それをやり始めるようになる。こういう連中が一番醜悪である。
上司の歓心を買うために、かつての友人にぬれぎぬを着せて売るまで堕落する人間もいる。これはぼく自身が「売られた」被害者だった。心底悲しかったし、傷ついた。その話もしておこう。
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99年暮れ、朝日労組で内紛があった。会社に強硬な役員の一人を、妥協派の他の役員が組合員の同意を取らずに勝手に解任し、それを組合員に知らせずに処理しようとしたのである。
労組の役員といっても、新聞や雑誌のセクションから「代表」のような人が1年交代で出てきて、また1年で職場に戻る。労組在任中に会社に逆らいすぎると復帰したときに不利に扱われるので、みなさん穏健である。
ここで偶然がふたつ重なった。この解任された役員というが、ぼくのアエラ編集部での先輩にあたる経済記者だったこと。ぼくが97年から98年まで労組の広報部長をやっていたことである。つまりぼくは解任された人も、労組の内情も、両方知る立場だった。
この解任された経済記者T氏は、アエラ時代にサラ金やヤミ金融の問題を早くから指摘していた人で、彼の先見性は、その後の日栄事件やヤミ金融規制法案ですべて証明されていった。鉄鋼会社の経理畑から朝日の記者になったという経歴のため、数字にめっぽう強く(労組では給与問題の交渉担当だった)、しかもこういう社会の問題点をいち早く発掘してくる記者の常として、簡単に妥協しない硬骨漢でもあったので、妥協的な朝日労組の中では疎んじられたのだろう(労組が会社に妥協的であることの是非はここでは論じない。念のため)。
ぼくは、T記者が役員を降りたことを知り、慰労のメールを送った。かつての同僚として「おつかれさま」くらいは言いたかったのである。すると返信として、彼が意に反して解任されるに至った顛末が送られてきた。ぼくは仰天した。「辞任」ではなく「解任」だったのである。一般の労組組合員がまったく知らされていない事実だった。ぼくは労組で広報部長をやっていたので、組合員の代表である役員を解任するような重大な動きがあれば、すぐに「有権者」である組合員に知らせなければならないことはよく分かっていた。ぼくは直ちに労組本部に抗議のメールを打ち、ついでに知り合いの社員十数人にT氏から来た解任の顛末メールを転送しておいた。このメールは転送に転送を重ね、1週間以内には会社中で大騒ぎになった。
ところが、誰かがこのメールを『週刊現代』編集部に持ち込んだのである(犯人は確認できた。週刊朝日編集部にいたYという人物だった)。というわけで、T氏解任事件は朝日労組のスキャンダルとして週刊誌ネタにまでなってしまった。
この記事の掲載後、新聞の経済部の会議で「誰がネタを週刊現代にタレ込んだのか」が話題に上がった。なぜ経済部の会議なのかというと、T氏が経済部員だったため、解任後は替わりを経済部から出さなくてはいけないからだ。また、現在の社長が経済部出身なので「経営中枢に一番近い編集現場」ということもある。ここで経済部長らに向かって(部長以上は管理職なので非組合員)ぼくを名指して濡れ衣を着せたのが、経済部の記者Yなのである。ご丁寧にも「僕はあいつを大学時代から知っている」という注釈まで付けて。
Yとぼくは同じ大学の卒業だ。彼は法学部で、ぼくは経済学部だったが、この大学はマスコミに就職する人間がほとんどいないため、新聞社を受験しようという人間は在学中から顔見知りになる。Yとぼくは一緒に作文を書いてお互いに見せ合ったりしていた。そして同じ会社に入り、新入社員研修も同じ部屋で寝泊まりした。ぼくの結婚式には彼に来てもらったし、彼の結婚式にも招待された(リクルート事件取材で忙殺されて行けなかったが)。その後、彼は経済部を歩み、ぼくは週刊誌畑を歩んだ。
自分が社外秘漏洩の犯人だと名指しされ、しかもそれが旧知のYの仕業だと聞いて、ぼくはYの自宅に電話をした。何かの間違いであってほしいと祈ったが、違った。彼は平然と言ったのである。「キミは確信を持って週刊現代にタレ込んだんだろう。それでいいじゃないか」と。さすがのぼくも頭に来た。こう見えても、労組の本部役員だったのだ。会社員、労組組合員としての守秘義務くらいは守る。メールを送ったのは組合員社員だけである。が、Yはぼくをあざ笑った。「何をそんなに怒っているんだよ」と。最後まで、一言も謝らなかった。彼を友人だと思っていたぼくが傷ついていることに、まったく思いが至らないのだ。ぼくは暗然たる気持ちで会話を終えた。悲しかった。
大学時代のYは繊細で心の優しい男だった。良識も常識もあった。それから朝日新聞社で十三年を過ごすと、こうも人間は変貌してしまうのか。出世を目の前にブラ下げられると、こうも醜悪な行動を取れるものか。こういう恥知らずな人間が会社の中枢に入っていく幹部候補生なのか。悪寒が走った。
このYは現在ワシントン特派員である。狙い通り、点数を稼いで順調に「出世」しているようだ。次は経済部デスクになるだろう。少なくとも、経済部長くらいにはなるだろう。編集局幹部か、うまく立ち回れば取締役にだってなるかもしれない。彼がどうなっていくかで、朝日での「出世」がどういうものかよくわかるから、ぼくは彼を忘れないつもりだ。
なお、経済部ではこのタレコミ犯人は今でもぼくだということになっていて、「烏賀陽のバカが」と陰口をたたくお歴々がまだおられるそうだ。そうすればするほど彼らは経済部内で点数を稼げ、「出世」していくのだろう。いかにも陰湿とはいえ、そこまで彼らの人間性を破壊する仕事環境とは一体何なのか、考えずにはいられない。何かが彼らを狂わせているのだ。いつの日かぼくが死に彼らも死んで、神様の前に歩み出たとき、彼らはぼくに詫びざるをえないだろう。
(注)この文章を公開した28時間後、Yからメールが来た。前述の電話でのやりとり以来実に4年ぶりの連絡だった。「経済部会で『ウガヤ君だと思う』といったことはありません。事実と全く異なります」との文面だった。公平を期するために、彼の言い分もここに記しておく。なお部会でのやりとりはYではなく他の知人から聞いた。
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不気味だったのは、同僚やデスクが職場で意見を交わすという光景がぼくの周囲からはほとんど消えてしまったことだ。みんなそれぞれの机で黙々と仕事をこなすばかり。他愛のない雑談くらいはするのだが、いま自分たちが直面している仕事のことを話し合おうとしても、みんな逃げる。
ぼくがいたアエラ編集部でいえば、地下鉄サリン事件に始まるオウム関連事件が頻発した95〜96年ごろは、ほとんど毎日デスクや同僚と食事をしながら(忙しすぎてメシの時間くらいしかそういう時間が取れなかった)意見交換をした。「なぜ高学歴の彼らがオウムに入信し、あんなテロを起こしたのか?」「オウム世代とはぼくたちのことではないのか?」から始まって「オウムとアニメは似ている」とか、それこそみんなの疑問が噴出した。ここから記事になったアイディアもたくさんある。一度弾みがつくとおもしろいもので、「松本サリン事件の捜査がなぜ失敗したのか、検証しよう」「オウム報道の検証をしてはどうか」「日本の警察について特集をしてはどうか」と、連鎖式にアイディアが次から次へと湧いてきた。
取材して書く記者がその記事をおもしろいと思っていなければ、読者が読んでおもしろいと思ってくれるはずがない。そのためには、お互いが持っているアイディアや疑問をぶつけ合い、複数のアイディアを併せ、不要な部分を削るという作業がどうしても必要なのである。「ネタのたたき合い」とぼくは呼んでいたが、要は自分一人で抱えている視点を他人の目にさらすことで、磨きをかけるという作業だ。英語でいえばcollective
wisdom(集団で知恵を出し合うこと)である。これをしないと、どうしても記事が独りよがりで、矮小なものになっていく。視点が狭いからである。
記者一人のアイディアが視点が狭いのは当然で、それを恥じる必要はない。だからこそ、複数の視点を持ち寄って視点を「ああ、そういう見方もあるな」「こういうことも言えるな」と広げなくてはならないのだ。また、こういうフリートークの中から、連想が連想を呼んで、気が付いたら「それ、おもしろいじゃない。記事にしろよ」と自分では記事になるとは思わなかった話が記事になった例もたくさんある。プラトンではないが「対話」は思考を活性化するのだ。
よく「95〜96年はオウムや阪神大震災があったからネタに困らなかったでしょう」と後輩に言われたのだが、これは逆である。オウムや震災のような大事件があると、テレビも雑誌も一斉に報道に加わるから、他の媒体に出ていない視点をどう見つけるかが極端に難しくなる。だからぼくらは必死でアイディアの出し合いをせざるをえなかったのである。逆に、こうした大事件のない「平時」は、どういう視点を構えるかで記事のおもしろさがゼロから問われるので、ネタをいっそう厳密に磨かなくてはならない。どっちにせよ、ディスカッションを重ねなくてはいい記事はできないのだ。
ところが、このオウム騒動が一段落した96〜97年あたりから、こういうデスク、記者同士の意見交換が極端に少なくなった。ぼくはこれではヤバイと思って「毎週月曜日午後8時から、編集部応接セットにてお話会開催。言論の自由保障。院外責任を問わず」などと、張り紙を出し、自腹で飲み物やつまみを買ってきては、同僚たちを待つのだが、誰も来ない(逆に編集長はちゃんと来た)。同僚や後輩と食事に行っても、上司や同僚の陰口や社内人事の噂話を延々と続けるばかりで、どんな記事が書きたいとかどんなネタを持っているとか、そういう生産的な会話がほとんど出ない。社宅の奥様族の井戸端会議みたいな非生産的な話ばかりしているものだから、つきあうこちらもだんだん疲れてきた。ぼくらは仕事=生産活動の同僚として席を同じくしているのに、である。98年から99年にかけてニューヨークの駐在に出かけ、帰ってきたときには、もう編集部内は死んだみたいに静かだった。
どうしてこうなったのか、ぼくにはよくわからない。週刊誌の編集部といっても人はいつも入れ替わっているから、そういう労働意識の高い人がいなくなったともいえるだろう。ならば、そういう編集部の「文化」のようなものを維持するのはデスクや編集長の仕事でもあると思うのだが、そういう人たちも異動でくるくる替わる(短い人だと1年でいなくなってしまう)のだから推して知るべしである。アエラの場合、5人のデスクのうち3人は新聞の経済、外報、政治部からの「出向者」の指定席なので、新聞セクションの無定見な人事異動がそのまま持ち込まれてしまう。新聞記者あがりのデスクは雑誌編集の経験がないから、このへんは出版社系週刊誌にはない弱点だ(たまに例外的な才能の持ち主もいたが、なにしろ人脈の蓄積がないのだから気の毒である。新聞記者を連れてきて雑誌編集者をやらせてもまったく違うプロフェッションなので使い物にならないという話は、別の大問題なのでここでは割愛する)。
それでも同僚や後輩たちと話を重ねるうちに、だんだん分かってきたことがある。自分たちの仕事をよりよいものにしたい、という切迫感が感じられないのだ。よりよい記者になりたい、よりおもしろい記事を書きたい、今までにない視点を読者に見せたい、等々「明日は今日よりベターな仕事をしたい」という意欲があれば、とてもじっとしていられないはずだ。街に出かけ、人に会い話を聞き、業界の展示会や新製品の発表会やコンサートや映画館に足を運び、そこで見たもの・聞いたものを誰かにぶつけてみたくなるはずだ。自分がニュースだと感じたものが他人にとってもニュースなのか、確認してみたくなるはずだ。何とか記事に仕上げたいと、必死であがくはずだ。そういう切迫感が感じられなくなったのだ。
時同じくして、デスクたちの不勉強がひどくなっていった。新しいネタに対する感度が極端に落ちたのである。だから、新しいネタをこちらがつかんできても、理解できない。こちらも、彼らが全方位十全な知識を持っているなんて期待していない。理解できないのなら現場の判断を信じればいいのだ(実際、かつてのデスク判断はそうだった)。それが、自分が知らないものは、はねつける。たぶん、自分が不勉強であることを認めるのが怖いのだろう。アエラでは五人のデスクと編集長、編集長代理から成る「デスク会」がネタの採用・不採用を決める権限を持っている。この人たちが「自分の知らないもの」をことごとくはねつけていったら、どうなるか。雑誌に並ぶ記事の鮮度が急に落ちたのは、このあたりが大きい。
わかりやすい例を挙げよう。村治佳織という若い女性クラシックギタリストがいる。ぼくが彼女が高校生のときに出したデビューCDを聞いたのは97年である。すぐに彼女は神童だと思った。そこで、クラシックギター界のベテラン何人かに電話をかけて彼女の評価を聞いてみたところ、全員が彼女の才能に太鼓判を押した。ここまで確認すれば間違いがないと思い、アエラの表紙か、少なくとも1ページの記事にはすべきだと提案したのだが、結果はボツ。理由は、編集長以下デスク会の七人が誰も村治佳織を知らなかったからである。
ところが、村治佳織はそのあと99年になってアエラの表紙に登場している。理由は簡単。週刊文春はじめ、他のメディアがグラビアなどで彼女を取り上げ始めたからである(名ギタリストであると同時に美少女だったのだ)。それを見たアエラの首脳陣は、どうやら村治佳織は掲載すべき価値があると「ニュース判断」をしたらしい。要するに、自分では判断する力がないので、他の雑誌やテレビを見て掲載する記事を決めているのだ。だんだん「どこかで見たような」既視感のある記事がアエラに並ぶようになっていった。これでは雑誌の鮮度が落ちるのも当たり前である。たとえて言うなら、日本料理店が、釣ったばかりの鮮魚(1次情報)ではなく、スーパーで買った切り身(2次情報)を客に出しているようなものだ。
こういうふうに、まったく他のメディアが取り上げないファースト・ハンド(1次情報)の状態でネタを発掘しても、首脳陣の不勉強のせいでボツにされ、他メディアに先を越されてしまうことが数え切れないほどあった。「鮮度の高いニュースを他より早く読者に届けたい」と願う者にとって、これほど志気を挫くこともない。ボツにされることが分かっているネタを提案するのもあほ臭いから、部員は次第にデスクのわかる範囲のネタしか提案しなくなる。こうして、ネタは常にデスクの理解能力とイコールか、または下回る範囲でしか出てこなくなる。恐ろしいことに、この縮小再生産がいったん転がり始めると、止めるのは難しい。他の雑誌やテレビでも見ながらネタを考えた方がラクだからである。
誤解してほしくないのだが、デスクの中には恐ろしい勉強家もいた。タイ語、中国語、ハングル語と40歳を超えて外国語を次々にマスターしてしまうUデスクがいた(最後は編集部内でハングル語の勉強会を始めてしまった)。ぼくがポピュラー音楽や映画、アート関係のかなり新しめのネタを「これは知らないだろう」と思って提案しても、必ず先回りして知っているデスクがいた。そのKデスクは「現代詩手帖」まで定期購読しているような勉強家で、これくらい努力を積んでいるデスクはこちらも自然に尊敬し、信頼する。そういう人になら、ボツにされても「こちらのネタが悪いのだろう」と思う。その上司の判断が信頼に値するかどうか、部下もよく見ている。上司と部下の信頼関係とはそういうものだと思う。
また、こちらもデスクや編集長がスーパーマンだとは思っていない。何でも知っているとは思っていない。知らないなら学習してくれればいいのだ。あるいは、現場にいる記者の判断を信用すればいいのだ。が、それもしない。業務のない時間は何をしているのかと思ったら、編集部に出入りする若い女性(ライター、アルバイト、デザイナーなど)との交際(内容はご想像にお任せする)に精を出す人あり、新聞勤務の合間の「休憩」としてひたすら帰宅を急ぐ人あり、井戸端会議と社内政治のために同僚とアルコール摂取に出かける人あり。要するに、自分に甘い、怠惰な人たちなのだ。彼らの辞書には「職責」とか「職業的使命感」という言葉はないのだろうか。
見ていないようで、部下はよく見ているのだ。上司が、ただ単に役職をかさに威張っているだけの空疎な人物なのか、本当にその判断を信じるに値するだけの努力を積んでいるのか。
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先に「同世代の同僚や後輩が、自分の仕事をよりよくしていこうという切迫感を感じさせなくなった」と書いた。なぜこうなったのか、ぼくはずっと不思議に思っていたが、最後の方になってやっとわかってきたことがある。この会社では、前章で書いたように、向上心に燃え、すぐれた仕事をしようと思って努力しても、何にも評価されないのだ。例えば「アエラをよりよい雑誌にしたい」と努力に励んでも、3年以上在籍すれば「もう長いから」と機械的に追い出される。書き手として努力を続けても、40歳前になれば「もうデスク年齢だから」(摩訶不思議な言葉だ)と書き手を降ろされる。すべてが年功序列、順送り人事、前例、慣習で決まる。特に明文化された規則があるわけでもないのに「そんなもんだ」という奇怪な共通理解がいつの間にかできあがっている。ここでは、人並み、月並み、前任者並みの仕事をしてさえいれば、誰も文句は言わない。まるで、4月になれば自動的に進級する小中学校教育みたいなシステムだ。
これで、世間よりずっといい給料をくれる。会社のカネで高級フレンチやイタリアンを腹一杯飲み食いできる。本やCDを買える。雨の日や、疲れた夜の帰路にはタクシーやハイヤーに乗れる。人におごって虚栄心を満たせる。上司に黙従さえしていれば、海外取材とかおいしい仕事が回ってくる。「朝日新聞に勤めております」と言えば、世間の人は(うわべだけでも)敬意を払う。平凡な人なら、この環境以上に望むことがあるだろうか。現状以上に、何を改善していこうという気になるだろうか。現状のまま、何も変わらなくてもいい、あるいは変わらない方がいいのだ。つまり、ここでは自己研鑽のインセンティブが根こそぎ奪われている。「朝日新聞社員の待遇」そのものが、巨大な既得権益なのだ。
さきほどから「自己研鑽」とか「自己努力」という言葉を繰り返して主張しているが、これは別にぼくが理想が高いとか、高潔な職業倫理を唱えているとか、そういう高尚な問題ではない。プリントメディアに働く人間が、読者以上の知識や視点を持ち得なければ、誰がその製品にカネを出すほどの商品価値を認めるだろうか。読者が気が付かないこと、読者には考えつかない発想、読者が思いも寄らなかった事実を紙面にするからこそ、読者はカネを出してそれを買うのだ。だから、記者なり編集者は「読者の発想」プラス・サムシング・エルスがないと、職業的に成立しないのだ。「他の人と違った考え方」をしないと、商売にならないのだ。ここが「プロ」と「アマチュア」の境界線なのだ。
ぼくがいう「自己研鑽」とは、その「サムシング・エルス」「他の人と違った考え」を育てる、つまり自分たちが作る新聞や雑誌、書籍に商品価値を持たせるための、最低限の職責、最小限の義務にすぎない。それさえ守られていないから、怖いのである。
もちろん、こういう自己研鑽を積まなくても、新聞というプロダクトはできあがるシステムがちゃんと用意されている。それが他でもない記者クラブ制度なのだ。以前、ぼくはデビッド・ハルバースタムとの会話の中で「アジェンダ・セッティング」の機能を日本のマスコミは欠いているという話を書いたことがある。「アジェンダ」とは「社会が議論すべき問題」のことであり、「何を議論すべきテーマなのか」を提示するのが「アジェンダ・セッティング」だ。記者クラブに取材の拠点を置いている限り、この「アジェンダ」は取材先の官庁や企業が決めてしまう(アジェンダ・セッティングについてのコラム本文はこちら)。
ぼくも1年だけ、名古屋市役所の記者クラブにいたことがある。一日中市役所の中に缶詰にされてウンザリしたが、それさえ目をつぶれば便利かつ快適この上ない。なにしろ、ずっとクラブに座って市役所の発表を加工して記事にするだけで、一日に記事が2本3本とできあがっていくのである。紙面もどんどん埋まるのでデスクも喜ぶ。だが「何もないところからニュースを探して歩く」という基礎体力はどんどん衰えていった。
つまり、「読者以上のサムシング・エルス」を求めて自己研鑽など積まなくても、記者クラブにいさえすれば、記事がどんどん書けてしまうのである。逆に言えば、記者クラブさえあれば、新聞社は、記者の人材に投資しなくても、日々の新聞を発行するという業務は成立してしまう(だから留学なんてさらさら必要ない。ぼくの名古屋時代の上司はちゃんと知っていたのだ)。こうして長年を過ごしてきた新聞社は、記者クラブなしでは読者に商品価値を認めてもらえる記事など書けない記者を大量に抱えている。もし記者クラブを廃止してしまえば、どんな破局が彼らを待ち受けているか、想像するのはたやすい。これほど世間から非難を浴びても、新聞社が記者クラブを死守する理由はこれである。記者クラブの外で生き残れる人材など育てていないことを、彼らはよく知っている。
新聞からアエラに移ってきた記者を見ていると、この「自分でニュースを探して歩く」「人が思いつかないような視点で現実を見つめる」という能力が衰えた人が非常に多かった。そういう人は、記者クラブ取材のない週刊誌に来ると、気の毒なくらい右往左往する。記者クラブにもいたことのあるぼくは、彼らの事情も痛いほどわかった。彼らが能力で劣っているのではない。記者クラブしか知らないから、「自分でニュースを探す」習慣がないし、そういうトレーニングを受けていないのだ(もちろん、朝日新聞社に在籍する記者でも、記者クラブなどに頼らないくてもいいくらいのニュースソースと学識を持っている人はいた。問題は、そういう記者が例外的といえるくらい少数で、しかも次第に数が減っていることだ。例えば、ぼくが知るどんなアメリカの大学院の教授よりはるかに深い知識と洞察力を持っていた田岡俊次編集委員は、定年でいなくなってしまった。)。
ぼくがラッキーだったのは、新聞社に17年勤務しながら、記者クラブの体裁を整えた記者クラブで働いた経験が1年しかないことだ。おかげで、「他人とはちがった視点でものを考える習慣」が最後まで殺されずに済んだ。記者クラブ取材のない週刊誌に10年いたことも大きい。ありがたいことだ。「ニュースのないところからニュースを見つけて書かなければ、仕事がない」という毎日を10年も送ったおかげで、ぼくはずいぶん鍛えられた。神経がおかしくなりそうなくらい過酷な日々だったが、この経験がいま、ぼくのかけがえのない財産になってくれている(ぼくが内側から目撃した記者クラブ制度の問題は、とてもここでは書ききれないので稿を改めることにする)。
もし誰か記者が「私はちゃんと自己研鑽を積んでいる」と主張しているなら、その人に尋ねればいい。あなたはどんな記事を書いたのですか、と。そして、その記事を見せてもらえばいい。そこに、読者が「こんなものの考え方があったのか」「こういう事実があったのか」という驚きを感じなかったら、その人のいう「研鑽」は自己満足でしかない。記者の仕事は、記事を読者に判断してもらうことでしか評価されない。判断するのは読者なのだ。判断を下すのは、あなたなのだ。彼らが振りかざす「権威」や「組織の看板」に気圧される必要はない。そんなもの、はぎ取ってしまえば、実情はたいしたことはないのだ。
朝日新聞社が出す新聞や雑誌から読者の心が離れているのは、実は、記者を自己研鑽から遠ざけ、スポイルする巨大な仕組みが新聞社内にできあがってしまったからではないかという疑念をぼくは消せない。それは新聞社内に一歩足を踏み入れた瞬間、他に選択肢のない巨大な存在として待ち受けている。そのスポイル・システムにどっぷり漬からないと、自分の仕事が評価されないのだ。ゆえに、きまじめな人ほどこのスポイル・システムに順応しようと励み、本当にスポイルされてしまう。「日本の新聞社員であること」自体がスポイル・システムなのではないかとさえ、ぼくは思う。
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最後にもうひとつだけ。同僚の無関心という点で、これは病的だとさえ思った出来事のことを書いておく。2001年の春、ぼくがいたパソコン誌の編集長が突然自殺したときの話だ。
ぼくがアエラを出たあとに赴任したのは、初心者向けのパソコン入門誌で、編集部員7人の小さな部署だった。ぼくが着任する半年前から、部数低迷のためリニューアルの準備を進めていたのだが、出版業界は不況のまっただ中、IT産業も下り坂だったので、妙案がなかなか出ないようだった。この作業の現場責任者がM編集長だった。
M編集長は、ぼくが朝日で出会った中でも、もっとも尊敬できる記者のひとりだった。科学部、科学朝日編集部で科学記者として活躍しただけでなく、パソコンの将来性を先取りして80年代に『朝日パソコン』を創刊したという先見性の持ち主でもあった。いつも穏やかな笑顔をたたえた、誠実な紳士だった。人に向かって声を荒げるのをぼくは見たことがない。連日連夜、新しい雑誌のアイディア出しの会議がそれこそ午前零時を過ぎても続いたが(泊まりがけで徹夜の会議もやった)、編集長は真摯につきあってくれた。それが、4月下旬に突然「会社を休む」という連絡があり、自宅で静養しておられると聞いていたのが、5月初旬に悲報が届いた。
ぼくはM編集長がなぜ自殺したのか、本当の理由は知らない。遺書が残っていたらしいが、内容は知らされなかった。ご家族も内密を望んでおられたからだ。
ぼくは編集長の葬儀に行った。ご自宅は、千葉県の新興住宅地にあった。白い一戸建て住宅の二階に書斎があって、勉強家の編集長らしく、科学学術書が壁一面を埋めていた。ふとその中に、彼の著書があることに気が付いた。欧米を駆け回り、ノーベル賞受賞者14人に「ノーベル賞の発想」をインタビューしたルポである。おそろしくおもしろい本だった。ページをめくるたびに、素晴らしいルポであることが伝わってくる。「サイエンスの素晴らしさを伝えるのが僕の夢だ」と言っていた編集長の言葉を思い出した。ぼくは涙をこらえることができなかった。彼は科学記者だったのだ。彼はずっと書いていたかったのではないだろうか? 雑誌編集長として部数低迷に歯止めをかける仕事なんては、ちっとも楽しくなかったのではないだろうか? 責任感ゆえに、その仕事から逃げなかったことが逆に彼を追いつめたのではないか? 彼を追いつめたものは何だったのだ? ちょうど書き手を降ろされたばかりのぼくには、我が身に重ねて考えずにはいられなかった。
問題はこの後である。職場に戻ったぼくたちを待っていたのは、厳重な箝口令だった。現職の雑誌編集長が自殺したことがスキャンダルになるのを出版局長はじめ上層部が恐れるのは、この会社の社風として今さら驚きもしなかった。ぼくが驚愕したのは、出版局の同僚が、まったく誰も、例外なくこの悲劇を話題にすらしなかったことである。しかも、誰が命じたわけでもないのに、こうなるのだ(社外には話すなと箝口令が敷かれたが、社内で話すなとは誰も命じていない)。まったく完璧に静かだった。
いやしくも同僚、それも現役の編集長が激務のさなかに自ら命を絶ったのである。一人の人間が死んだのである。これは、自分たちの仕事環境のどまん中で起きた惨事なのだ。それに完全に無関係と言い切れる人はいないはずだ。ぼくは彼の自殺を「誰かのせい」にしたいのではない。自殺の原因が完全にプライベートなことだって、ありうる。が、これほどの重大事が起きたことを真摯に受け止めるなら、命の重みを誠実に考えるなら、問わずにはいられないはずではないのか。「なぜこんなことが起きたのだ」と。人間なら、記者でなくても問わずにはいられないはずではないのか。「我々の仕事環境の中に、何か重大な問題があったのではないか」と。
この問いを、誰も発しなかった。葬儀の翌日から誰もが、また黙々と仕事に戻ってもう話題にもしなかった。アエラや週刊朝日や書籍編集の同僚が、説明を求めて出版局長室に押しかけたなどという話も聞かない。説明さえ求めずに、誰もが納得してしまったのだろうか。ぼくは暗澹たる思いに沈んだ。ぼくはそれまで、朝日新聞社をイヤな組織だと思ったり、居心地が悪いと思ったことはは何度もあったが、「怖い」とまでは思わなかった。が、この出来事を境に、この上司や同僚たちの無関心と無気力と無作為が文字通り怖くなった。病んでいるとさえ思った。ここでは、人間が人間として必要な要件が、何かすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。記者としての素質を云々する必要なんて、ない。非人間的だと思った。身近な人間の死を無視して平気でいられるようなインセンシティブ(無神経)な人間が、この社会を、世界を、人間を取材して書こうなんて、傲慢にもほどがある。
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いろいろと書き連ねてきたけれど、朝日新聞社内にいる特権階級たちは、ぼくをことごとく無視するだろう。彼らにとっては「批判に耳を貸さない」ことが自らの権威と正統性を担保する方法なのだ。批判にこたえてしまっては、批判者と同じ土俵に立ってしまっては、相手に自分と同じ権威と正統性(そんなものが朝日新聞社にあるのかどうか自体アヤシイのだが)を認めてしまう、と勝手に思い込んでいる。実際に、会社の中で上司がそう言って外部の批判をけなしているのを聞いたことがあるから、目に浮かぶようだ。だから、彼らは何もしないだろう。批判に押されて何かをするのも、彼らにとっては腹立たしいこと極まりないのだ。親に宿題をせよと促されると「今からやろうと思っていたのにぃー」とヘソを曲げる小学生のように。
何もしない代わりに、社員の噂や内緒話、陰口がぼくに対するネガティブ・キャンペーンを始めるだろう。誰か朝日の社員に、この文章のことを聞いてみるといい。彼らは澄ました顔、あるいはちょっと困惑したような顔をしてこう言うだろう。「あれは、社を辞めた人間ですから」と(『社』というと朝日新聞社のことなのです!)。社員同士なら、もっと行儀が悪くなる。「あいつは裏切り者だ」「何だかんだ言って、出世できなかったのを恨んでいるだけだ」「あいつだってうまい汁を吸っていたはずだ」「フリーになったので売名に必死なんだ」「内情を売ってネタにしようとしているだけだ」などなど(こうやって書き並べてみると、なんだかマフィアみたいだ)。
あるいは、お酒が入った席などでは、ちょっと感情的になって「現実は理想通りにはいかないんだよ」「あいつなんか恵まれた方じゃないか」(次に『サツ回りもロクにやってないくせに』とか言いますよ、きっと)「贅沢なんだよ」「ワガママなんだよ」と悪態をつくかもしれない。
あるいは「いやあ、烏賀陽クンの言うことはもっともですねえ、ぼくも職場でがんばっているんですが、上司が頑固でしてねえ、なかなかタイヘンですよ。ハッハッハ」なんて軽くかわす人もいるかもしれない。あるいは「誰もが烏賀陽クンのように優秀じゃないからねえ」と、心にもないことを言って自分を卑下してみせるかもしれない。「烏賀陽クンは完璧主義だからネ」「潔癖だからネ」と、ぼくを「特異な存在」扱いしてみせるかもしれない。
彼らの行動をどうか注視してほしい。どう言葉を左右しようと「結局、何もしない」ことに関しては彼らは同じなのだ(いやはや、朝日の人は体面を取り繕うのが上手だから大変だ。ぼくもそうだったのだけれど)。
ぼくと関わりを持つことはタブーになるだろう。原稿を発注するなんて、とんでもないことだ。朝日の媒体にぼくの名前が出るなんてことは、ぼくが犯罪被疑者にでもならない限りもってのほかだ。ぼくが何かの用事で社内を歩いていたとすると、かつての同僚や先輩の大半は目をそらせ、知らないふりをするだろう。言葉を交わしても、それを他の社員に見られないようにと怯えるだろう。
ぼくの発言を貶め、既得権益を守るためなら、彼らは何でも言う。何でもする。誰が命じたわけでもないのに、自然にそうなるのだ。そうやって点数を稼ごうという人間が、必ず出るのだ。特権の内側にいる人間は、何が守るべき権益なのか、言葉にしなくてもお互いに了解している。それを外部には言わないという「沈黙の掟」を守っている。堕落した特権集団とは、そういうものなのだ。
あるいは、少数の良心的な人は言うだろう。「キミの言うことはもっともだ。ボクもかねがねそう思っていたんだよ」と。が、そう言う人の3人に2人は、何もしない。そう言うだけで、自分の良心が満たされたかのように思って安心し、そして、また職場に戻って着席し、日々の業務を変わりなくこなす。そうやって着席した瞬間、自分が特権とスポイル・システムの末端に連なってしまうことに、彼らは気づいていない。
そんな姿を見て、上層部の人たちは胸をなで下ろし、ほくそ笑むのだ。「ブツクサ文句を言っても、この会社の給料と特権を手放すヤツはしょせんいないのさ」と。「カネと特権さえ与えておけば、結局は誰もが沈黙するのさ」と。「俺たちは同じ特権を享受する『身内』なのさ」と。
すべてが目に浮かぶようだ(なにしろぼくは、17年もこの組織にいたのだ。40年の人生の半分近くである)。だから、朝日社員に会ったら、彼らがここで書いたことにどういう反応をするのか、凝視してほしい。それで、あなたの目の前にいる相手が、どういう種族なのかがわかる。ぼくは「オレの言うことに賛成しろ」とか「同意しろ」などと言っているのではない。自分たちの仕事を真摯に、誠実に、真剣に考えているかどうか、問題から逃げずに取り組もうとしているか、それとも堕落した特権集団でしかないのかが分かるのだ。目を開いて、よく見てほしい。耳をそばだて、よく聞いてほしい。
そして、今から5年、あるいは10年経ったら、ここに書いたことを思い出してほしい。そして、朝日新聞社のどこがどう変わったか、2003年を起点に考えてみてほしい。朝日新聞社の未来は、日本のジャーナリズムの主要な部分の未来であり、とりもなおさず日本の民主主義の未来の一部でもある。ぼくは、できるだけ楽観的でいたいと切に願っている。現実には、それは非常に難しいのだけれど。
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最後に、もう一言だけ。ここに書いたことは「朝日新聞社の批判」には違いないのだが、これはぼくがたまたま勤務した先が朝日新聞社だったからにすぎない。勤務したのが例えば銀行だったなら、同じように銀行の病弊を書いただろう。その勤務先を離れるにあたって、退職の理由を説明するために書いた(ぼくは話すよりは書いた方が考えたことをうまく説明できるので)。よってこの文章は「烏賀陽弘道が朝日新聞社に勤務し続ける動機をなくした顛末」をつづった、ごくごくパーソナルなものにすぎない。ぼくの言っていることに公益性があるのかないのかは、読んだ人が判断してくれればいい。
だから、誤解を封じるために何度でも強調しておくが、ぼくは世に跋扈する「朝日バッシャー」の戦列に加わるつもりなど、毛頭ない。まっぴら御免だ。ぼくがここで文を書きつづった動機は、彼らとは別のものだ。ぼくはたまたま朝日新聞社に勤務したから朝日の内情をよく知っていただけで、他の新聞社やテレビ局などマスメディアの抱える病弊はどこも大同小異のはずである。病んでいるのは朝日だけではない。朝日だけを攻撃しても、問題がすり替えられるだけで、何の利益ももたらさない。だから、朝日の批判だけを続けて生業とする人たちのようにも、なりたくない。ぼくには、他に書きたいことが山のようにある。
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自分が失望を重ねた記憶を掘り出し、書きつづるのは、本当につらい。少々疲れてきた。書くべきことはまだまだたくさんあるのだが、それはまたいつの日か稿を改めることにする。
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「民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。しかし、そのことが起きるとき--見よ、それは近づいている--彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる」
(旧約聖書『エゼキエル書』33章31節)
(2003.7.1)
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