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隔週連載コラム「ずぼらの馬鹿力」旧世紀編 [No.2]
バイクに乗って「彼」に会おう
バイクに乗ると、今まで気づかなかったある「彼」の存在が急に身近になった。僕が 生まれてからずっと彼はそばにいて、じっと僕を見ている。いつか必ず僕は彼と一緒 に旅立つのだ。


目的地に着かないうちに、日が落ちてきた。少し風が冷たくなってきた気がする。
ギアを落として、アクセルを回した。速度計の赤い針が少し右に首を傾ける。
TシャツとGジャンの隙間から冷気が吹き込んで来た。東京を出たのが3時近かったから、まあ仕方がない。自業自得だ。

何も予定のない日曜日、息が苦しくて目が覚めた。
カーテンの隙間から、光が部屋を射抜いていた。空気が熱い。体が汗でぬるぬるする。寝床の上体を起こすと、髪から滴が落ちた。
前の晩、泥のような疲れが渦巻く体を寝床に投げ出したとたん、意識を失った。僕は、痛みでばらばらになりそうな頭を必死で動かして、なすべきことを見つけようとする。
窓を開けた。湿気と熱気が部屋に暴れ込んできた。ほこりっぽい街が、凶暴な太陽に曝され、砂漠の城のように輪郭をぼやけさせている。夏が来たのだ。

1時間後、僕はバイクに乗って東に向かっていた。行き先はどこでもよかった。とにかく、陸が終わるところまで行こう。そう思った。地図を見て、外洋に乳首のように突き出た岬を見つると、そこにボールペンで円をつけた。
バイクに乗ってのんびりくつろぐつもりだったのに、甘かった。
高速道路の上は、すさまじい風圧だ。虫が前から飛んできて顔を打つ。肌を拭おうと左手をハンドルから離した瞬間、腕を思い切り後ろに引っ張るような力が来て、バランスを崩しそうになった。
もう1時間近く、行き交う車と、バイクのエンジン音がずっと耳を満たしている。そんな音の洪水の中を泳いでいると、耳が麻痺して何も感じなくなる。
なんだか静かだ。脳がとろんとする。
いつの間に忍び寄って来たのだろう。後ろから銀色のトラックがすっと近づいて、追い抜いてゆく。風圧が背中をぐっと押したかと思うと、トラックが真横を通り過ぎた瞬間、今度は前から空気の塊が胸をどんと突く。そのたびに、僕ははじき飛ばされないよう、ハンドルをぎりぎりと握りしめるのだ。
背中に一筋、冷たい汗が流れた。
ステップに置いた僕の足の下20センチのところで、黒いアスファルトの路面が時速100キロで駆けている。ほんの少し降ろすだけで、僕の足はがりがりと削り取られるのだ。縛り付けられた体に丸ノコが高速回転しながら近づいてくる気分。なんだか、昔見た白黒の映画みたいだ。足の裏がむずむずする。
成田空港を過ぎたあたりで、ようやく車の量が減った。もうビルの影は見えない。目の前の緑の田んぼを、高速が大蛇のようにうねっている。
何だか不思議な気分だ。時速100キロで飛んでいく僕の体。でも、この速度は僕のものじゃない。走っているのは、400ccの重金属の中でガソリンを爆発させているヤマハのバイクなのだ。ハンドルを握る両手と、シートに置いた腰だけが、僕を時速100キロのスピードにつなぎ止めている。
自動車みたいに、体を守る鋼鉄のシールドもない。車とからだを結ぶシートベルトもない。皮膚に包まれた頼りない肉と骨の塊が、猛速で宙を飛んでいる。
この瞬間、ほんの10度ハンドルを左に回したらどうかな。バイクは側壁に衝突する。このままカーブを曲がらずまっすぐ中央分離帯に突っ込んでもいい。分岐点のコンクリートに衝突するのもいいかもな。あっという間にあの世行きだ。
僕の体はアスファルトの路面でずたずたにされるんだろう。頭は西瓜のように割れ、手足がちぎれてあちこちに飛び散るかもしれない。待てよ、それを誰かが拾い集めなくちゃいけないんだ。ご苦労さんなことだ。後の車にも迷惑だろうな。
水を詰めた風船のような肉体がぱんと弾ける瞬間を、僕は思い描いてみる。
後ろから白いトヨタ車が一台、うなり声をあげながら近づき、追い抜いていった。
いけない。何でこんな不吉なことを考えているのだ。疲れてきたのだろうか。ずっと同じ姿勢で単調なエンジンの回転音を聞き続けているせいかもしれない。
僕は頭を振った。ヘルメットが突風で浮き上がり、あごひもがのどに食い込んだ。
その時だ。バックミラーの片隅に、何かが映っているような気がしたのは。
車にしては変だ。見える。黒い体を丸めたそれには小さな目と鼻があって、毛むくじゃらの動物のように見える。
高速道路の上に?こんなスピードで?
後ろを振り返る。何もいない。暗くなり始めた風景の隅で、コンクリートの側壁だけが流れている。
そんな馬鹿な。非常電話のボックスが視界に入っただけだろう。
何だかんだと理由を見つけようと頭を振り絞った。
でも、それとは裏腹に、僕の視界の片隅に、「何か」が居座ったまま動かないのだ。
ゴーグルに虫が当たってつぶれたのかもしれない。手袋で少しレンズを拭いてみる。
でも、消えない。やっぱり「何か」がそこにいるのだ。
〈ここ、ここ〉
耳元で囁くように、はっきり聞こえた。
誰だ?誰が喋っている?
額に一筋、冷たい汗が流れ落ちた。
〈びっくりしてんの?僕はずっと君といるのにね〉
僕はハンドルを固く握りしめ、頭を振った。声はずかずかと耳に、いや脳随に踏み込んでくる。 〈まあ仕方ないかもね。君はバイクなんか乗り始めたもんだからさ、僕を感じるようになったんだよ〉
僕は目を見張った。「何か」は至るところにいた。側壁のコンクリートに座っている。白いガードレールの上にうずくまっている。中央分離帯に。道路分岐の黄色い点滅燈ポールに。路面の陥没面にもいる。
大勢の「彼ら」が僕を見ていた。
サイドミラーを見た。後ろから車は来ない。前にもいない。いつの間にか、薄暗いハイウエイに僕だけが取り残されていた。
道路から日差しが消えようとしていた。
エンジンを切って路肩でしばらく休もうか。
〈心配すんなよ。まだだよ。まだ。な?〉
「彼ら」がいっせいに頷いた。
よく見ると、彼らはどれも同じような姿や顔をしているようだ。暗くてよく見えない。でも、なんで、こいつら、こんなになれなれしいしゃべり方をする?
山の切れ目に、明かりが見えた。車線が減って、高速道路はそこで尽きた。
僕は座り直し汗を拭うと、アクセルを回した。どこかにこの世のものはいないのか。
料金所には誰もいなかった。バイクを止めると、草むらで虫の鳴く声がした。
黄色い機械にチケットを突っ込む。
「リョウキンハ、セン、キュウヒャクエン、デス」
録音テープが回り、女の声がして、赤いデジタル数字が灯った。札をスリットにねじ込むと、機械は冷たい銀貨を一枚、ぺっと吐き出した。
目の前に黒い街が横たわっていた。落花生の殻のような平屋の間を、狭い道が続いている。陸が尽きるところまで、あと20キロ。青い表示板がそう告げている。
日の落ちた集落に、人影はなかった。灯明のような家の明かりが、道に沿って並んでいる。
道は曲がりくねりながら僕を運んだ。街を過ぎ、山かげを抜け、河の土手に続いていた。ゆっくり、できるだけゆっくり、僕はバイクを動かす。
「彼ら」の声は止んでいた。視界から「彼ら」の姿も消えていた。でも、僕にははっきりと感じていた。
「彼ら」は、すぐそばにいる。もしかしたら、後部シートに座っているのかもしれない。背中にぶら下がっているのかもしれない。
でも、そんなに恐ろしい感じがしないのはなぜだ。幼いころに毎晩抱いて寝たぬいぐるみのクマちゃんの感触が、なぜか蘇ってきた。
あと18キロ、15キロ、10キロ。僕は残りの距離を計算し続けた。もう引き返してもいいんじゃないか。ここまで来たんだし。時間も遅い。そんな考えが頭をかすめた。でも、なぜか僕の体はそれを許そうとしなかった。行くんだ。陸の尽きるところまで。あと少し、あと少しだけ。そう言って急かすのだ。
冷たい風が潮の匂いを運んできた。
最後の漁師街を抜けた。民宿の角を曲がると、突然、あたり一面が明るくなった。まるで太陽が引き返してきたかのように。
それは灯台だった。光線がくるくると回り、僕の目を射抜いている。
からっぽの駐車場が広がっていて、その向こうに白いガードレールが見えた。
陸はそこで尽きていた。ガードレールの外側を闇が埋めていた。
僕はガードレールのそばにバイクを止めエンジンを切った。太い機械音が消え、鼓膜が振動を止めた。次の瞬間、低く唸るような音が足もとから上がってきた。大きな空気の塊がやって来て、僕の胸を突いた。暗い風景も揺れていた。どこかで、何かとてつもなく大きな生きものが、太鼓を打っているような気がした。
ガードレールの下は崖だった。白い牙のような波頭が黒い海面をするすると滑ってこちらにやって来る。遠くで、濃紺の海と空が溶けあい始めていた。
崖を降りる階段を下った。
浜は狭かった。岩と岩の隙間に波が砂を運んだ。そんな感じのわびしい砂浜だった。
視界の中で動くものは、白い波頭だけだ。黒い海の上に瞬き、また消える。どん、と重い空気の塊が飛んでくる。ブーツに海水が忍び寄ってきているのを感じた。
向こう岸には、何もない。
僕はひとりごちた。
ちがう。向こう岸は、ない、だ。東京湾と違って、ここは外洋なのだ。
でも、頭の中では「向こう岸には何もない」という声がこだましている。
すべての生きものが死に絶えたかのように、あたりは静まりかえっている。波の砕ける音だけが、闇を渡ってこちらに忍び寄って来る。
〈僕はずっとここにいる〉
「彼」は、今度は暗い海の中にいた。
ここって、どこだ?
〈君のそば。いつだって君と一緒にいる〉
いつからいるんだ?
〈君が生まれた時からずっとだよ〉
生まれた時から?
〈いや、ちがうな。君が生まれる前にもいた。ずっと前からいた。君が想像もできない昔だ。この海みたいなもんさ。ずっと寄せては返しの繰り返しだ。終わることも始まることもない。同じことを繰り返している。君ら人間が僕に会うのは一生に一度だけど〉
今がその時なの?
〈さあね。知らないよ。僕はただ待つだけなんだ〉
低く大きな音がして、またひとつ波が砕けた。ジーンズを海水がぬらした。
僕はブーツを脱ぐと、海に向かって歩き始めた。水にぬれる感触が、くるぶし、ふくらはぎと上ってくる。冷たい電気が脊髄を貫いた。足もとに黒い水が渦巻いている。
素足に、何かぬるりとした生きものが触れた。次々に触れた。足の回りを何かが舞い踊っているような気がする。
海から冷たい風が渡ってきた。海水の中で、熱で爛れたような足先から血が引いていく。澱んでいた血が体を回り始める。どくどくと血管が広がり、脈を打っていた。僕は朽ちた木のように立ちつくしたまま波に洗われていた。
両手を海に浸してみた。遠くから旅してきた水が皮膚の上を流れていく。指を口に含むと、苦みの混じった塩気が舌の上で弾けた。唇がひりひりする。
どれくらい時間が経ったのだろう。
肉と骨を詰め、皮膚で覆った僕の体は、海水に溶けていく気配はない。
〈まだ、みたいだね〉
波が落ちる音に混じってまたあの声がする。
そう、まだその時じゃない。でも、いつか会いに来るんだろう?
もう何の声も聞こえなかった。僕は海に背を向けた。
崖の上で民宿の明かりが青く瞬いているのが見える。窓に小さな人影が動いた。僕は大きく息を吸い込み、一歩一歩波を蹴った。
とにかく、あそこまで戻ろう。
人間のいる場所まで。

(2000.8.10)




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