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●新幹線に乗った予言者 「これ、召し上がりますか」 最初に話しかけてきたのは、その女性の方だった。 振り向いたぼくの鼻先に、赤いキャンディの包みがあった。50歳くらいだろうか。灰色のブラウスに茶色のスカート姿の地味なおばさんが、こちらに微笑みを投げている。 東京から京都に向かう新幹線の中にいる。女性の後ろの車窓には、青い富士山がくっきりと見えていた。東京駅で隣に乗り合わせたそのおばさんは、列車が動き始めてからずっとぼくのことを横目でちらちらと見ていた。何かぼくに言いたげな様子だった。が、京都までたっぷり3時間読書に没頭するつもりだったぼくは、わざとその視線を無視していた。 ぼくは本を閉じて礼を言い、キャンディを受け取った。それがきっかけになって、ぼくたちは話を始めた。 最初は他愛のない世間話だった。彼女には、ぼくと同い年くらいの息子がいる。その息子が就職して初めて出張に出ている。新幹線で旅するぼくを見て、息子を思い出した。云々。のんびりした会話だった。 それが一転したのは、彼女がこんなことを言い出したからだ。 「あなたのご親戚で、空豆のような顔をして焦げ茶色の和服を着た80歳くらいのお婆さんがいませんか。もう亡くなった方で。あなたとごく近い方です」 おかしなことを聞く人だ、と訝しがりながら、ぼくには心当たりがあった。 「母方の曾祖母ですね。ぼくが3、4歳のころ亡くなりました。よく膝に乗ってお菓子をもらいました。大好きなおばあちゃんでした」 それがどうかしたんですか、とぼくは尋ねた。おばさんは急にこちらに向き直り、真剣な顔になって言った。 「あなたのすぐ後におられます」 背中に一筋、冷たい汗が流れ落ちたような気がした。 「何ですか、それは?」 「私、人の背後霊が見えるんです」 しまった、とぼくは思った。とんでもない人の隣に座ってしまった。これは心を病んだ人に違いない。京都までまだ2時間もあるのに。なんとか席を変われないかな。 おばさんは、狼狽えるぼくにはお構いなしに続けた。 「あなたにはもうひとつ、背後霊がいます」 もう勘弁してくれ、とぼくは思った。 「金色の目をした黒猫です。心当たりがありませんか?」 あっ、と叫びそうになった。 ぼくが10歳くらいのころ、近くの公園に捨てられていた子猫を拾ったことがある。生まれてすぐに捨てられたらしいその猫は、飢えてもう鳴く力も残っていなかった。ぼくは猫を家に連れて帰り、ミルクや煮干しを与え、体を洗って回復するまで面倒を見た。元気になったその猫は、知人にもらわれていった。つやつやした黒毛に、金色の目がきれいな猫だった。餌を食べるとき「うまい、うまい」とおかしな声で鳴くので「ウマイウマイ猫」と呼んでいた。20年近く前の話だ。 おばさんは、黙って頷きながらその話を聞いていた。ぼくはだんだん怖くなって尋ねた。 「その霊って、邪悪なものなんですか?」 「大丈夫です。その猫は、あなたに命を救われたことを今でも感謝しているんです。だから死んだ後は背後霊になってあなたを守っているんです」 そりゃ、良い話じゃないか。少し安心した。 「何か猫にちなむ物を身につけなさい。ペンダントでも指輪でもいいです。必ず運が開けます」 「猫、ですか?」 「招き猫でいいんです。部屋に置いてください。日の昇る東に顔を向けて」 分かりました、とぼくは答えた。それでも、内心ぼくは半信半疑だった。それが疑いようがなくなったのは、このおばさんがぼくの妻の実家の特徴を次々に当てたからだ。 あなたの奥さんの実家は、田圃の真ん中にある二階建ての日本建築ではありませんか?玄関の横に松の木がありませんか?その傍らには淡い水色の庭石がありませんか?などなど。 それが、ことごとく当たっていたのだ。 「どうして分かるんです?」 彼女はぼくの問いには答えず、重ねて聞いた。 「あなたの奥さんは、腰や肩、頭の病気がありませんか?」 それも当たっていた。妻は確かにひどい腰痛、頭痛と肩こりに悩まされている。 「その庭石には、非業の死を遂げた人の霊が封じ込められているんです。それが奥さんに悪い影響を与えている。行って、日本酒を染み込ませた日本手拭いで石を20回ふき清めてあげてください。それで解決します」 ぼくはもう黙るしかなかった。彼女は一人ごとのようにしゃべり続けた。 少女のころから、自分には人の背後霊が見える能力がある。そして、それを見るとその人の運命や死期までが分かる。道で見かけた人が、あと一週間で死ぬ、ということまで分かってしまう。それがとてもつらい。それで黙っていたが、予知能力があることがだんだん人の耳に入り、あちこちからお声がかかるようになった。ふだんは主婦に過ぎないのだが、呼ばれて運勢を見るために旅することも多い。 「今も、大阪にいる宗教団体系の政治家に会いに行くところなんです。選挙の情勢を占ってほしいんですって」 おばさんは、柔らかに笑った。 いつのまにか、新幹線は名古屋を過ぎて京都に近づいていた。ぼくは彼女に礼を言い、京都で降りると告げた。おばさんは、少し物憂げな顔になってこう言い足した。 「あなたの人生は、これから2、3年以内に激変します」 ぼくは笑って言った。 「よく分かりますね。来月から、ぼくはアメリカの大学院に2年間留学するんです。それじゃ、卒業したら、会社を辞めるかもしれませんね」 そうですか。それはおめでとう。おばさんはそう言って頷いた。顔が少し暗かった。気になったけど、理由を尋ねることはしなかった。 電話番号を教えましょうか、という彼女の申し出をぼくは断った。これだけの話が出てもなお、心のどこかでぼくは「予知」とか「予言」とかいうものを否定していた。 そして、それから2年が経って、妻の裏切りによってぼくの結婚は破綻した。離婚届に判をついたのは、きっかり3年後だった。 アメリカから東京へ帰ると、ぼくはすぐに10センチほどの白い招き猫を買い、正確に東を向けて家のダイニングテーブル置いた。 運が開けたかって?それはまだ、分からない。
●北山の森でぼくを呼んだもの 高校生のころ、ぼくは自転車で丹波山地を巡るのが何よりも好きだった。 土日になると、愛用の赤いツーリング車に跨って北山を目指す。住んでいたのが京都市の北部だったので、丹波山地の入り口までは15分ほどだ。1時間もペダルをこぐと、峠をひとつ越えて日本海まで連なる丹波山地の南端に入る。京都の市街地から直線距離で10キロも離れていないのに、そこはもう北山杉に覆われた山々が幾重にも重なる山岳地帯だった。 あれは5月ごろだったと思う。ぼくは京都市から日本海へ抜ける敦賀街道を北へ向かっていた。道端の木陰に残る残雪を横目に見ながら、京都府と滋賀県の県境にあたる急峻な峠を越えた。下り坂を駆け下りながら、汗を冷やす追い風を楽しんでいた。 ふと、道路の左手に、砂利道の入り口が目についた。自転車を止めて地図を確かめた。地図にはない。北山杉の深い森に分け入る、暗いトンネルのような道だ。新しい轍はひとつもない。 使われなくなった林道かもしれないな。 ぼくはあたりを見回した。もう滋賀県側に入ってかなりになる。人家は見あたらない。道路を走る自動車の姿も絶えている。風に揺れる梢の音と、鳥のさえずり以外には聞こえるものもなく、あたりはしんとしていた。 なぜか、なぜだか今でもさっぱり分からないのだが、ぼくはその道に入っていきたくなった。目的地の方角からすれば、まったくの寄り道だ。暗くなるまでに京都市街に戻ることを考えれば、さほど時間に余裕がないことも分かっていた。だが、ぼくはその道をたどりたくなった。 ハンドルを左に切って15分も走っただろうか。その道は、暗い杉の森をまっすぐに開いていた。人家はまったく見えない。人の姿もない。薄暗い森の中を、ぼくは一人走った。 かすかな音に気づいたのは、その時だ。ペダルを踏むにつれ、その音は少しずつ大きくなった。何か太くて大きな音だ。遠くで空気が震えているのが分かった。 さらに走り続けて、森がぱっと開けたとき、その音の正体は姿を現した。 滝だった。 高さは2、30メートルくらいだろうか。白い絵の具を一筋引いたように、岩肌を水の帯が滑り降りていた。 もう一度地図を見た。こんな滝は出ていない。 「これは、もしかすると地元の人も知らない滝かもしれない」 ぼくは胸を躍らせながら滝壷の方向へ坂道を降りていった。 大きな滝だった。滝壷に落ちる水量は多く、轟音が鳥や風の音をかき消していた。水辺の石に腰を降ろして休んでいると、滝壷近くに背くらいの高さの潅木が茂っているのが目についた。 なぜか、またしてもなぜなのかさっぱり分からないのだけど、その潅木の陰に何かがある、という気がした。その潅木に近づくと、垂れ下がった枝を上に払ってみた。 次の瞬間、腕や足一面に鳥肌が立った。 そこにあったのは、小さな墓だったのだ。 墓石の表面はもうすり減って、墓名は読めない。滝のしぶきに濡れて、森の一部のように苔むしていた。 山に生きて山に死んだマタギだろうか。木こりだろうか。もう何十年、いや何百年も人目に触れることなく忘れられていた墓に違いない。 ぼくはまっすぐに迷うことなく、この墓の前に来てしまったのだ。 ぼくはじりじりと後ずさりをした。聞こえるのは滝の落ちる音ばかりである。鳥の声は絶え、人の姿は見えない。 しかし、ぼくははっきりと感じていた。 この森の中に、ぼく以外の誰かがいる。 それは、ぼくを呼んだ「彼」だ。 気がつくと、日が山の稜線に傾き始めていた。谷の底のような滝壷は、日が落ちるのも早いのだ。 ぼくは震える両手で合掌した。そして自転車に飛び乗ると、後ろを振り返らずに全力で走った。何かが追いかけてくるような気がした。必死で走った。 なぜあのとき、幹線道路をそれて左手の山道に入る気になったのか。ぼくは今でもよく考える。答えは出ない。「何か」が呼んだ、としか説明のしようがないのだ。 それにしても、あの苔むした墓に眠っていたのは一体誰だったのだろう。
●帰ってきたポンちゃん 3歳くらいのころ、家に犬が来た。庭付きの家に引っ越したのをきっかけに、両親がどこかでもらってきたのである。焦げ茶の柴犬系の雑種だった。名前は「ポンちゃん」。ぼくが名付け親だった。 赤い屋根の白い犬小屋に、ポンちゃんは住んでいた。ぼくとポンちゃんは仲良しだった。鎖を解き、庭の芝生でよく一緒に遊んだ。 が、小学校へ上がると、ポンちゃんと遊ぶ時間がぐっと少なくなった。小学校で新しい友だちができ、つぎつぎに家に遊びに来たからだ。庭付きの家に住んでいる子供はまだ近所では少なかった。ぼくも新しい友だちが嬉しかった。が、犬を恐がる子供も多い。庭を走り回る僕たちを、ポンちゃんは鎖につながれたまま羨ましそうな目で見つめていた。 小学校も3、4年にもなると、ぼくはあまりポンちゃんに関心を持たなくなった。犬より草野球や模型作りの方がずっとおもしろくなったからだ。ポンちゃんは犬小屋につながれたまま寂しそうに一日中寝そべっていることが多くなった。 たまにぼくが犬小屋の前を通りかかると、ポンちゃんは足音を聞きつけて犬小屋から飛び出してくる。「散歩に行こうよ」。目がそう言っているのが分かった。が、ぼくは頭を2、3度なでてすぐ立ち去ってしまう。それを悪いとも思っていなかった。 そのうち、赤と白の犬小屋のペンキも色あせ、ポンちゃんも老犬になっていった。見かねた母親が散歩に連れ出しても、すぐにせき込んで走れないようになった。 雪がちらつくある朝だった。庭に積もった雪を見ようと、ぼくは外へ出た。 切り抜いたように黒い穴が、真っ白な雪原にあいていた。冷たい雪の上に、ポンちゃんはぱったりと倒れていた。口元から赤い血が流れ出して、雪を染めていた。大きく見開いた琥珀色の目が、悲しそうに遠くを見ていた。 体にうっすらと雪が積もっていた。ポンちゃんは死んだのだ。 ぼくは、自分の立っている地面がぱっくりと割れ、暗い地中に吸い込まれていくような気がした。ぼくのせいで、ポンちゃんは死んだような気がした。暗い闇の中をどこまでも落ちていくような感覚が、ぼくを打ちのめしていた。どこかへ連れ去られるように、すうっと頭の中が白くなっていった。 ぼくは声を限りに叫んだ。泣き叫んだ。 悲しみだけではない。見開いたポンちゃんの目が、ぼくを責めているように思えたのだ。重い罪悪感が、焼けた石を飲んだようにぼくの心を焦がしていた。 その日、ぼくは学校を休んだ。 そして翌日、ぼくは泣きながら、保健所に引き取られるポンちゃんの亡骸を見送った。 それから1週間ほど経ったある日のことだ。 学校から帰り、家の玄関のドアに手をかけたぼくは、息が止まりそうになった。 ドアの横に、犬が丸くなって寝ていた。茶色の毛並み。赤い首輪。ぼくに気づいて上げた顔は、ポンちゃんが蘇ったとしか思えないほど瓜二つだった。 「お母さん、ポンちゃんが帰ってきた!」 母親も、家から飛び出してきた。そして犬を見ると「これはまあ、一体、なんてことでしょうね」と言ったきり、絶句してしまった。 庭に入れると、その犬は迷わずまっすぐにポンちゃんの犬小屋に入り、そのままぐうぐうと寝てしまった。 ぼくは嬉しかった。今度こそは犬を大切にしようと心に決めた。名前はもちろん「ポンちゃん」にした。 中学・高校時代、2代目ポンちゃんを連れてよく近所を散歩した。受験生のころも、勉強に疲れるとポンちゃんを連れて近所を歩き回った。金閣寺の紅葉や、北野天満宮の梅林や、平野神社の桜を一緒に見上げた。最後はいつも、小高い丘の上にある公園に行き、地面に並んで座っては眼下の町並みを眺めた。1時間もそのままでいることもあった。そして、夕暮れに星が光り始めるころ、橙色の明かりが灯る家に帰った。それは、とても美しい思い出だ。 2代目ポンちゃんはぼくが大学に上がる前後にフィラリアにかかり、穏やかに息を引き取った。 あのポンちゃんがどこから来たのか、今でも分からない。悲しむぼくを不憫に思った親が、似た犬をそっと連れてきたのかもしれない。でも、たった1週間であれほどそっくりな犬が見つかるものだろうか。 あれは、神様の贈り物だったんじゃないか。最初のポンちゃんを大切にせず、罪悪感に苦しんだ幼いぼくに、神様が2度目のチャンスを与えてくれたんじゃないか。「いいかい。これからは、命あるものを大切にするんだよ」。そんな神様からのメッセージだったんじゃないか。 大人になった今でも、ポンちゃんのことを思い出すたびに、ぼくはそんなことを考えるのだ。
●オマールさんとの不思議な縁 「南方特別留学生」の取材の旅に出たのは91年の8月だ。「南方特別留学生」とは、第2次世界大戦中の1942年から43年にかけて、当時の「大東亜省」が東南アジアの国々から日本へ招いた留学生たちのことだ。年齢は15歳から23歳前後。フィリピン、マレーシア、インドネシア、ビルマ、ベトナム。そんな占領地から、王侯や知識人、政府閣僚ら有力者の子弟ばかり200人ほどが選ばれた。 ぼくはまだアエラに来て半年経ったばかりの新米記者だった。この企画も、自力で立てたわけではない。元バンコク特派員だったデスクがいて「やってみないか」と勧めてくれたのだ。 日本での下調べのあと、ぼくは2週間ほどかけてマレーシア、インドネシア、フィリピンにブルネイ・ダルサラームを回り、70歳前後になった元留学生たちを訪ね歩くことにした。その中で、ただ一人だけ元留学生でない人が取材予定リストにあった。 それは、留学先の広島で被爆し、わずか19歳で世を去ったサイイド・オマールさんの妹、アザーさんだった。「広島でお兄さんを死なせたことで、日本人を恨んでいませんか」。それが、ぼくの聞きたいことだった。 日本での調査で、アザーさんはマレーシア大学の学長と結婚してクアラルンプールに住んでいることが分かった。が、手がかりはそれだけだった。とにかくマレーシアに行くしかない。現地入りしたぼくは、マレーシア大学の事務局に連絡して、先方からの電話を待つことにした。が、なかなか連絡がない。明日はマレーシアを離れるという日の朝になって、やっと電話があった。昼過ぎに自宅へ来てくれ、という。 今では60歳を過ぎたアザーさんは、美しく聡明な女性だった。オマールさんの思い出に関する質問にも感情を乱さず、英語でてきぱきと答えた。 インタビューの最後に、ぼくは恐る恐る質問した。日本人を恨んでいませんか、と。「いえ、まったく恨みはありません。あれは戦争だったのだ、と考えるようにしています」と背筋をまっすぐに伸ばして言った。そしてそのまま沈黙してしまった。長い長い沈黙が続いた。そしてアザーさんが顔を上げると目に涙が光っていた。「そう考えないと、現実を受け入れられないのです」。今度はぼくが黙る番だった。 別れ際に、アザーさんはある依頼をぼくに託した。戦争中、日本人の軍医でフクダさんという紳士がいた。礼儀正しいインテリで、オマール家とは家族ぐるみのつき合いだった。何とかフクダさんと連絡が取れないだろうか。 ぼくは快諾した。探してみます。そう約束した。が、内心、これは簡単ではないな、と思っていた。 が、フクダ医師は簡単に見つかった。ぼくが書いたオマールさんの記事を見て、向こうから編集部に電話をかけてきたのだ。 「もしもし弘道君、久しぶりですね。記事を読んでびっくりしましたよ」 フクダ医師はこう切り出した。仰天したのはこちらである。アザーさんの言ったフクダ医師とは、なんとぼくの祖父の従兄弟だったのだ。ぼくも、自分の親戚の福田医師が戦争中に東南アジアで軍医をしていたことは知っていたが、まさかその人がアザーさんの言ったフクダ医師だとは夢にも思わなかった。 これだけなら「世間は狭いですね」で話は終わっていただろう。 帰国したぼくは、オマールさんに関する続報を取材し始めた。広島で被爆したオマールさんは、東京へ避難する列車の中で放射線障害の症状が出て、京都帝国大学付属病院に緊急入院する。が、手当の甲斐なく、1週間後には息を引き取る。亡骸は、イスラムの教えに従って京都に葬られていた。毎年9月の初旬に、地元の有志がオマールさんの法要を営んでいた。それを記事にするつもりだったのである。 当時の資料を調べているうちに、ぼくは驚きに打ちのめされた。オマールさんの最期を看取ったのは、濱島義博という若い医師だった。まだ放射線障害に対する治療法もなかったころ、濱島医師は自分の血を抜いてふらふらになりながら、白血球値の低下したオマール君に輸血をくり返した、という話が出ていたのだ。 誰あろうこの濱島医師こそ、ぼくの幼いころのかかりつけの医師、ホームドクターだったのである。濱島医師は後に京大の教授になる。が、その自宅はぼくの実家から数百メートルのところにあり、奥さんがそこで開業していた。奥さんが忙しい時には、濱島医師も診察を手伝っていたのだ。 ぼくは京都の母親に電話して濱島医師の自宅に電話し、このストーリーがすべて事実であることを確認した(濱島教授は退官して京都女子大学の学長になり、現在は武蔵野女子学院大学の総長を務めておられる。福田医師と濱島教授に面識はなかった)。 デスクの「烏賀陽君、この取材、やってみるか」の一言で始まった取材が、ぼくを不思議な「お盆の縁」へと導いていった。 「僕を取材するなら、君しかいないよ」。そう言ってオマールさんがぼくを呼んだのだろうか。そうとしか考えられないほど、不思議な巡り合わせだった。 (98.9.8) |
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