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隔週連載コラム「ずぼらの馬鹿力」No.00
「ダンス・ダンス・ダンス、ヒューマン・リーグ、安室奈美江」
いつも若者は「大量消費型音楽」に騙される。僕もそうだった。でも、それでいいんじゃないか?どんなに安っぽくても、「思い出」に織り込まれた音楽は代え難く美しい輝きを放つのだから。

 

 

 村上春樹の話をしよう。

 なんて書くと、はやりモノ好きのキザなヤツのように聞こえるでしょうね。ああ、イヤだ。イヤだが、何年か前、流行性感冒のように彼の作品に傾倒していた時期があったのは本当なので、まあしょうがない。「ダンス・ダンス・ダンス」の話をしましょう。読んで思わず腹を抱えて笑ってしまったので。

 この小説の主人公「僕」は、神経症的にポピュラー音楽にうるさい。ラジオから流れる最新のヒット音楽や、13歳の少女ユキがウォークマンで聴く音楽にことごとくケチをつける。

 例えば、彼がネコの死骸を埋葬しようと車でシャベルを買いに行く場面。カーラジオから音楽が流れてくる。ところがこの男、「フリードウッド・マック、アバ、メリサ・マンチェスター…」と、ご丁寧というか律儀というか、12もバンド名を挙げて次から次へと怨嗟の声を上げる。そして、最後にぶすりととどめを刺す。

「くだらない、と僕は思った。ティーン・エイジャーから小銭を巻き上げるためのゴミのような大量消費音楽。」

 ヒューマン・リーグ(バンドの名前ね)に至っては「馬鹿げた名前だ。なんだってこんな無意味な名前をつけるのだろう?昔の人間はバンドにもっとまともな節度のある名前をつけたものだ」と、説教を垂れる。そして「節度あるバンド名の例」としてシュープリームズ(古い!)やビーチ・ボーイズ(もう、気絶しそうなほど古い!)、ドアーズ(古い!けどドアーズは僕も大好きなので、これは許す)など縷々挙げ連ねるのである。

 ここまで読んだ僕がどうして大笑いしたかというと、この主人公が34歳だからだ。34歳と2カ月。偶然にも、この本を読んでいたときの僕(烏賀陽)とまったくの同い年なのである。

 そして、主人公・彼が「ティーン・エイジャーから小銭を巻き上げるためのゴミのような大量消費音楽」と悪態をつくバンドは、どれも僕が大学生だったころに流行ったものばかりなのだ。はっと思って本の扉をめくると、果たせるかな、この作品は1983年3月に始まるという設定ではないか。

 1983年!僕が大学に入った翌年である。つまり、村上春樹言うところの「ゴミのような大量消費音楽に小銭を巻き上げられたティーン・エイジャー」とは、誰あろう僕の世代のことなのだ。

 そして、小銭を巻き上げられ続けて34歳になった僕は、いま流行りの安室奈美江や小室哲哉を「スナック菓子のような大量消費型音楽」と罵倒する記事を書いて、さんざん騙されて散財した恨みを晴らしたりしている。

 これが笑わずにいられましょうか。

 きっと、今のティーンエイジャーにすれば、僕も「ウザったい説教垂れのオッサン」と映るのだろう。僕が村上春樹をそう思ったように(ちなみに、村上春樹は1949年生まれなので、まもなく50歳に手が届く。なんのことはない、朝日新聞の上司連中と同じ年代なのだ。そりゃ説教臭いはずだよ)。

 基本的に、他人の音楽の好みについて云々するなんて余計なおせっかいだと僕は思う。僕は、音楽は最終的には「好み」の問題だと考えている。主観、趣味、嗜好、テイスト。それですべてが決まる。

 例えば、カレーライスが大好きな人に「カレーライスなんて栄養価最低だ。もっとマシなものを食え」などと説得しても無駄だろう。彼はカレーを食べ続けるにちがいない。逆にムカデが大嫌いな僕が(僕の一番苦手なものはムカデです)「ムカデも命あるものなのよ。愛してあげて」などと言われた日には、これはもう死んだ方がましである。

 そう、好き、嫌いは説得や議論で変わるものじゃない。ロゴス(論理、理性)の問題じゃないのだ。

 僕は「表現として優れた音楽」を紹介する仕事はよくやる。自分が感動したら、その感動を人に伝えたいと、一人のリスナーとして自然に思う。「ね、いいでしょ?」と他人に問いかけたくなる。真面目で真摯な表現者を見ると、ジャーナリストとして広く知らせたいとも思う。

 それはあくまで「自分」という主観が出発点になっている。そりゃ、いろいろごちゃごちゃ理屈を並べて論理立てることはできる。いわく、リズムの使い方が斬新だ、独自の歌詞世界を展開している、名曲をこれまでにない解釈で演奏している、云々。が、最後は僕の好み、趣味、嗜好、テイスト。それ以外に判断の基準はない。オレが良いと思うから、いいのだ。そう言えるくらい、音楽はたくさん聴いているし、耳も鍛錬しているつもりだ。

 が、その一方で、自分の主観がそれほど普遍的でもないことも知っている。

 だから、コムロやアムロが大好きな人がいたら、それはそれでいいんじゃないかと思う。僕は個人的にはコムロもアムロもスピードも好きじゃない(スピードなんて名前、本当に節度がない)し、自分が額に汗して稼いだカネと短い人生の一部を費やすほどの価値はないと思っている。が、だからと言ってコムロやアムロが好きな人に「お前は間違っている、もっと良い音楽を聴け」なんて言う気は全然ない。

 もうこの際だから洗いざらい白状してしまうと、村上春樹言うところの「節度のない」ヒューマン・リーグを、僕は大学に入る前後に好んで聴いていた。今で言うハウスミュージックの祖先みたいなエレクトロ・ポップの全盛期で、ヒューマン・リーグもその旗手だったのだ。

 そのころ僕は高校時代からつきあっていたガールフレンドにふられた(他の男に取られた)直後だった。生まれて初めて「両思い」というやつを経験、舞い上がった時期の直後だっただけに、このブロウは効いた。大げさでなく、毎朝寝床から出るのがしんどいくらいの鬱の海に沈んでいた。

 だから、今でもヒューマン・リーグの音楽を耳にすると、あの暗い海底にうずくまっているような鬱がフラッシュバックしてくる。そして、その暗闇からようやく這いあがってきた朝、部屋の窓を開けたところでくうくう鳴いていたハトの表情まで思い出す。なぜかは分からないのだけど、あのハトを間近で見たとき、僕はほんの少しだけ立ち直る元気が出てきたのだ。

 今聴くと、ヒューマン・リーグの音楽は時代遅れで安っぽくさえ感じる。「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公のように、僕もその後34歳までにいろいろな音楽を聴いて、少しは耳が肥えたらしい。

 が、その音楽は僕の19歳の春の記憶にあまりに深く突き刺さっている。もう一生消えることはないだろう。ヒューマン・リーグにまつわる僕の記憶は、ことほどさように個人的(パーソナル)なのである。

 今の歳でガールフレンドにふられても、あれほどの絶望はもう感じないだろう。その後結婚したり離婚したり、また新しい彼女ができたり別れたりを経験しているうちに、女にふられても人生終わりでもないな、と妙に達観してしまったのだ。19歳の時に僕が経験した絶望感は、青春期でないと見ることのない深くて暗い淵だった、と今になって思う。

 きっと、今のティーン・エイジャーたちも、15年経ってアムロやコムロを聴けば、自分の青春の日々を思い出すのだろう。チョー嬉しかったこと、ムカついたこと、マジで悲しかったこと。彼氏、彼女とデートしたときに見た風景。そんなことを思い出して感傷にひたるのだろう。そのころの自分は、もう二度と戻ってくることはないのだから。

 アムロやコムロがいかにくだらなくても、そのパーソナルな記憶自体はとても美しく、なにものにも代え難く貴重だ。ある人がある音楽を「好きだ」と感じるとき、そこには必ずそんなパーソナルな要素が付随している。

 それにケチをつけること自体、間違っている。英語で言えばIt's not your fuckin' business (おめえの知ったこっちゃねえよ)である。中指おっ立てなければならないのである。

 だから、僕が最近のはやりモノ音楽についてごちゃごちゃ悪態をついても、「うるせえよ。オレは好きなんだ」と無視してしまっていい。僕は一向に構わない。かつて、僕もそうだったんだから。

 だいたい、音楽なんて「音で楽しむ」ことがすべてなのだ。それでいいのだ。

 しかしみなさん、僕も「若者」からうっとうしがられるような年齢になってしまったのですねえ。

(1998.6.25)






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