これはブルックリン・ブリッジ。マンハッタン側から見たところ。クイーンズボロ・ブリッジはこの隣です。(色を青寄りに修正)



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隔週連載コラム「ずぼらの馬鹿力」No.013〜ニューヨーク編
"夜目遠目、傘の内"
ニューヨークで暮らすうちに、いろいろと忘れていたことを思い出す。16年前に初めてこの街を訪ねたとき、ぼくは父と一緒だった。もう長く会っていない父親について。今回も小説風。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


まったくひどい渋滞だ。

もう10分以上、ぼくの乗った黄色いキャブは10メートルも動いていない。速度、1分に1メートル以下だ。厚い防弾ガラスの仕切ごしに見える料金メーターは、ここぞとばかりに赤いデジタル数字を増やしている。

前も横も後ろも、片側2車線の道路は車で埋まっている。視野の限り車だらけだ。

前の茶色のビュイックは、追突された痕がある。バンバーがへこみ、テールランプが片方割れて裸電球が晒しものになっている。ドライバーがいらだたしげに頭をぶるぶる振ってはハンドルを叩いている。

どうやらしびれを切らしたらしい。突然エンジンをふかすと、無理矢理隣の車線に車をねじ込もうとする。

とたんに、クラクションの大合唱。居並ぶ車の窓がいっせいに開いた。 白人も黒人もヒスパニックもユダヤ人(頭のてっぺんに河童のお皿みたいな黒い帽子を乗せているので分かるのだ)も、みんなから顔を出して、罵声を投げつける。

「何やってんだ、このクズ!」

「キチガイ野郎!」

「アス・ホール!」

「地獄へ落ちろ!」

まるで罵詈雑言の万国博覧会だ。

「うるせえ、マザーファッカー!」

窓から顔を突き出して、怒鳴り返す白人。

黒いBMWに乗った黒人が、どでかい音でラップを鳴らしながらその脇をすり抜けようとする。 また罵声とクラクションの嵐。金色のネックレスをじゃらじゃらさせたつるつる頭の黒人は、顔色ひとつ変えない。窓から中指一本立ててぼくの横を通り過ぎた。太くて黒い指に、金色のばかでかい指輪が鈍く光っていた。

まったくもう、なんなんだ。ぼくは舌打ちをした。

運転席からも、舌打ちが聞こえた。 ムハマンド・アジース。免許番号CH35。苦情、忘れ物は212−NYC−TAXIまで。防弾ガラスに張り付けられたピンクの営業許可証で、ひげもじゃのアラブ人がこちらを睨んでいる。なんだかテロリストの手配写真みたいだ。

たばこが吸いたい。たばこの箱をジャンパーのポケットから取り出したところで、気が付いた。タクシー内での喫煙は法律で禁じられております。罰金は120ドル。フロントシートの背中に、すり切れたステッカーがでかでかと張ってあった。

やれやれ。ぼくはたばこをまたポケットにしまう。

「なんでまた、こんなに混んでるんだ?」

ぼくはいらいらして運転手に聞いた。

「このちょっと先がクイーンズボロ・ブリッジなんだ」

彼の濃い巻き毛の後頭部がぶるぶると横に振れている。

「ここは、いつもこんなもんさ。仕方ねえな」

運転手は振り返りもしない。ふん、と鼻を鳴らした。

一体、いつになったら家に帰れるんだ? もう時計は夜の11時半を回っている。

金曜の夜、ダウンタウンのジャムセッション・クラブにギターを弾きに行った帰りだ。居合わせたミュージシャン連中との演奏が盛り上がり、口笛吹き吹きご機嫌な気分で帰路に付いたまではよかったのだが、舞い上がっていたのか、見事に帰りの地下鉄のホームを間違えた。なんだか駅と駅の間隔が長いな、と思ってはっと見ると、もう列車はイーストリバーを渡ってマンハッタンから遠く離れたブルックリンを走っていた。

慌てて列車を飛び降り地上に出てみると、そこは街頭もロクにないような暗い荒れた街だった。薄暗い街ででかいギターケースを抱え、青い顔でうろうろする東洋人。最悪のシナリオである。冷や汗をだらだらかきながら、必死で走り回ってようやくつかまえたのがこのタクシーだ。

よろよろとシートに倒れ込むと、いきなりふやけたテープの声が鳴った。

「ハアイ。ラジオ・パーソナリティー、歌手でコメディアンのジム・××です。賢いドライバーはシートベルトをします。もちろんぼくもシートベルトを忘れません。あなたもそうですよね?シートベルトをして安全運転。それではハブ・ア・ナイス・デー」

なんなんだ、これは。脳天気な声に腰の力が抜けた。

だいたい、シートをまさぐっても、このタクシーにはシートベルトなんてないじゃないか。 脱力状態のぼくを乗せた車が動き出してすぐ、渋滞に巻き込まれた。もう、30分以上もこのクラクションと罵声の渦の中にいる。

このタクシー、カビと埃の匂いがする。

深呼吸がしたい。ぼくは窓を開けて顔を出した。冷たい空気がぼくの頭を流れ落ちた。 遠くでさっきの黒人が鳴らすラップが響いている。雷鳴のような低音が夜の空気を震わせていた。 視界を埋める車の頭越しに、水色の灯りがレースの首飾りのように夜空に滲んでいた。

「ほれ、もうすぐマンハッタンだぜ」

運転手の声が聞こえる。 それは、クイーンズボロ・ブリッジの灯りだった。まるで誘蛾灯のような淡い灯りがゆらゆらとアーチになって揺れている。

その向こうに、マンハッタンの街の灯りが見えた。まるでおとぎの城のようだ。

マンハッタンは遠くから見るのが一番だな、とぼくは思う。

マンハッタンのど真ん中に住んでいると、あまりこの街が美しいとは思えない。歩道の上には誰かが投げ捨てたマックシェイクが吐瀉物のように流れていたり、ドブネズミの死体が転がっていたりする。繁華街を歩いていたら、横手からなにやら黒い液体が一筋、路面を流れてきたことがあった。何だと思ったら、ビルの陰で白人の太った婆さんが尻をこちらに向けてびちゃびちゃと放尿していた。その夜、丸々とした白い尻が夢に出てきてうなされた。

上を見ると、摩天楼に切り取られた空は悲しくなるほど小さい。ビルの谷底は午後3時ごろには日が落ちて寒くなる。

まったくロクなもんじゃないよな、とぼくは思う。 それに比べて、いま目の前に横たわるマンハッタンの輝きはどうだ。夜会に出かけるために金銀宝石で着飾った女。そんな言葉が頭に浮かぶ。 昼間のすっぴんの顔のどこに、こんなにきれいな姿を隠していたんだい?ねえ。

そう、マンハッタンは女だ。夜目、遠目に限る。恋し続けたいなら、あんまり顔を近づけて見ないほうがいい。

夜目、遠目、と来れば、次はもちろん傘の内、である。 そう、雨の日のマンハッタンも泣きたくなるくらいに美しい。濡れたセントラルパークの緑。雨の滴で光る街路樹のイチョウ。路面のアスファルトさえ歌い始めるようだ。地上のすべての塵芥が洗い清められたかのように、すべてが清々しく輝き出すのだ。

ニューヨークという女と末永くつきあいたいなら、夜目、遠目、傘の内。まったく言い得て妙だ。 ぼくは一人でくすくす笑う。

「ごらん、きれいだろ?」

そのとき、横から男の声がしたような気がした。はっと横を見る。誰もいない。薄闇の中で、黒いギターケースがシートに横たわっているだけである。 ムハマンドは相変わらず黙ってハンドルを操っている。

誰か、そこにいるのか?

ぼくは車の中の暗闇をじっと見つめた。誰もいない。街頭と自動車のヘッドライトが流れては消えている。

「ごらん、きれいだろ?ニューヨークはね、夜目、遠目、傘の内がいいんだ」

また声がした。 ぼくは後ろを振り返った。さっきの間抜けなテープがまた回っているのか?でも、なぜ日本語でしゃべる?なぜ、こんなに聞き覚えのある声なんだ?

ぼくは目を閉じて頭を振った。 おれは疲れているのかもしれない。そういえば、昨日も東京との電話連絡で朝4時まで起きていた。体がぼくの時間の使い方を非難しているのかもしれない。

こんな生活、むちゃくちゃだよ。早く家に帰ってシャワーを浴びて眠るんだ。 家?そう。あのマンハッタンがぼくの今の家だ。この異国がぼくの家なんだ。

「ごらん。あのマンハッタンの姿を見ると、ぼくは家に帰ってきたみたいにほっとするんだ…」

もう一回声が聞こえた。脊髄に電流が走ったような気がした。 思い出したのだ。声の主を。

「……パパ?」

ぼくの唇が震えて、もう長い間使ったことのない言葉が漏れた。

思い出した。 ぼくは以前にこの道を来たことがある。 あの時、ぼくは父と一緒だったのだ。

埋もれていた記憶が、噴火でもするように意識の上に吹き出してきた。 あれは、ぼくが大学に入った年の夏だ。ぼくはまだ19歳だった。 ぼくは1年浪人して大学に合格した骨休めに、ニューヨーク旅行に来たのだ。父は、たまたま仕事でニューヨークにいた。

ぼくと父は、タクシーに乗ってマンハッタンに帰る途中だった。今と同じような夜だった。どこへ行った帰りなのか、もう忘れた。 ちょうど今みたいな渋滞に巻き込まれた時だ。ぼくは黄色いTシャツを着ていて、父は白いサマーセーターで、そうだった、汗かきのうえに蕁麻疹もちの父親は蒸し暑いタクシーで悪戦苦闘、ぼくがハンカチで背中の汗をふいてやったんだ。そうそう、JFK空港にぼくを迎えに来た父親は急に禿げていて、びっくりするぼくを見た父は「いやー、ニューヨークの夏は暑いからねえ、もうカツラも着けてられないよ」と照れ笑いをして…。

蒸し暑いタクシーに缶詰にされたあげく、やっとマンハッタンの灯が見えたとき、父はやれやれとため息をついた。そしてこう言ったのだ。

「あのマンハッタンの姿を見ると、ぼくは家に帰ってきたみたいにほっとするんだ」

ぼくの父は、ニューヨークの郊外で3歳から10歳までを過ごしている。祖父が銀行員だったため、ぼくの祖父母、父と二人の伯母は、上海、北京、南京、ロサンゼルス、ニューヨークと世界各地に移り住んだのだ。

ぼくは父のそんな科白を黙って聞いていた。ぼくにとって、初めて訪れたニューヨークの街は、まだ異国にしか感じられなかったのだ。

あれが、ぼくと父との楽しい思い出の最後になった。

もともと、父は滅多に家に帰らない人だった。1年に2,3回、ふらりと立ち寄る、という感じだった。要するに、ぼくがまだ子供のころから父には愛人がいて、そちらが生活の中心だったのだ。これは、ぼくが30歳を過ぎてから知った話だけれど。

高校生くらいまで、ぼくはそんな父を疑問には思わなかった。父親というのはそんなものだろうと素朴に信じていたし、母も不仲であると認めたことがなかったからだ。大人は誰も、父の不在を口にはしなかった。ぼくもそんなことよりロックや映画に夢中だったし、うるさい人間がいない方が気ままだったのだ。

が、ニューヨーク旅行から帰って数ヶ月たつと、ぼくは家に帰らない父が許せなくなっていった。夫婦仲が悪いのだから今思えば当然なのだが、そんな大人の世界を理解するにはぼくはまだ若すぎた。

ぼくと父はよく電話で口論をした。

「あんたなんか、父親じゃない!」

ぼくは父にそんな罵声を浴びせた。

「カネをくれる以外に、あんたは何をしてくれたんだ?」

父はしばらく黙った。静かな受話器の向こうで、なにかの雑音がしゅうしゅう鳴っていた。 そんなとき、父は必ずこう言った。

「お前、誰に食わせてもらっていると思ってんだ?」

そう言われると、ぼくはもう言うべきことが一言も見つからなかった。言葉が鼓膜に突き刺さって血が流れているようだった。 ぼくは、受話器を握ったまま体を震わせた。焼けた炭を飲み込むように、得体の知れない感情が自分の胸に沈んでいくのが分かった。

必ず最後にどちらかが電話を叩き切って、口論は終わる。父だったか、ぼくだったのか、もう覚えていない。

そんなことが何回か続いて、父との連絡は途絶えた。 父に最後に会ったのがいつなのか、もうはっきりとは思い出せない。もう十数年も会っていないことだけは確かだ。

あのころまだ50歳そこそこだった父は、70歳に手の届く老人になっているはずだ。きっとはげ頭も広がっているだろう。白髪になっているのかもしれない。

あのころ、勤め先の化繊会社の取締役になることに執念を燃やしていた父は、夢を果たせずに定年を迎え、自分の事業を始めた。が、それもバブル崩壊で失敗、今は中国へ出かけては繊維製品の個人輸入をしている…。そんな風の便りはぼくにも伝わっていた。

が、ぼくは関心を持たなかった。もう、どうでもよかったのだ。 自分も仕事を始めて父から経済的に自立してしまうと、父はもうぼくの人生に関係のない人間になってしまった。

そう、皮肉なことに、父の言ったことは正しかったのだ。食わせてもらうことを止めた瞬間、ぼくらの親子関係は終わった。ぼくと父の関係はそれだけだったのだ。

人を憎み続けるのはエネルギーがいる。30歳に近づいたころから、ぼくは父を憎み続けるのがばからしくなっていた。エネルギーと時間の無駄遣いだ、と思った。 そして、憎むことさえ止めた瞬間、父はぼくにとって完全に赤の他人になった。

「やれやれ、やっと抜けた」

中近東なまりの英語の声がして、ぼくは我に返った。

ムハマンドが運転する黄色いタクシーは、橋を渡ってマンハッタンに近づいていた。

いつの間にか車は渋滞を抜け、クイーンズボロ・ブリッジをするすると走っている。 開けた窓から、潮の香りが流れ込んできた。イースト・リバーの川面に、ビルの灯りがゆらゆら揺れている。 はるか下の水面を見つめていたら、なんだか、宙を飛んでいるみたいな気がしてきた。

やっと帰ってきた。家に帰ってきた。 ぼくは、窓にもたれて輝くマンハッタンの街をぼんやりと眺めた。

「あら、遅かったじゃない」

彼女はそう言っている。

「言い忘れてたけどね、私、あなたのお父さん、子供のころから知ってるのよ」

そうだね。知ってるよ。父もあなたが好きだったんだろ? ぼくは窓を開けて冷たい空気を吸った。

ねえ、父に最近会ったかい?

マンハッタンはじっと黙ったままだ。

ぼくはね、もうずいぶん長い間父に会っていないんだ。

真横の車線を、赤いスポーツカーが駆け抜けていった。金髪の女がハンドルを握っている。爆音で、頭の中が一瞬真っ白になった。

「…パパ、か」

ぼくは、自分の言ったせりふに苦笑いをした。なんて恥ずかしいんだろう。

タクシーはぐんぐんスピードを上げる。 ぼくは目を閉じた。 帰ったら、オヤジに手紙でも書いてみようか。ニューヨークにいます、って書こう。ニューヨークの絵はがきなんてのもいいかもしれない。

タクシーは橋を渡って暗いビルの谷間に進んでいく。紙屑が舞う街角をぼくはぼんやりと眺めた。

はっと思い出した。 そうだった。ぼくは、父の住所も電話番号も知らないのだ。

ぼくは呆然と体をシートに沈めた。疲労で血液の流れまで悪くなっているような気がした。

「パパ、ね……」

ぼくはふっと笑った。笑ったまま、顔が凍り付いた。目が痛いな、と思った瞬間、ぼたぼたと涙が膝の上に落ちた。冷え切ったジーンズになま暖かい液体がしみ込んだ。

なぜぼくは涙なんか流しているんだ?なにがそんなに悲しい?

なんだか、ぐるぐる目が回るような気がする。うまく考えがまとまらない。

ぼくは窓から吹き込む冷気に顔を向けた。風を浴びれば、涙が早く乾くだろうと思ったのだ。

「今夜は冷えるな」

ムハマンドがぼそりとつぶやいた。

そうだね、寒い。

本当に寒い。

(98.11.20)





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