夜の8番街。かつてはHell 's Kitchenと呼ばれたあたり。ぼくの住みかはこのへんです。



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隔週連載コラム「ずぼらの馬鹿力」No.012〜ニューヨーク編
"サマータイム・パレード"
ニューヨークにいると、時々日本では想像もできないような出来事に出くわす。サマータイムが終わった日、8番街で出会った暗いパレードとイエス・キリストについて。今回は小説風。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


少しうたた寝をしたようだ。

目が覚めた瞬間、自分がどこにいるの分からなかった。

寝ている間に日が落ちたらしい。あたりは真っ暗だ。 ぼくは目をこすった。そして息を呑んだ。 ぼんやりした視界いっぱいに、光の塔が輝いていた。

昼間は煙突のような摩天楼が、艶やかに変身していたのだ。眠っている間に体が浮遊して、光る木の森に迷い込んだみたいだ。

ぼくは頭を振った。 すとん、と宙を落ちるような感覚が、ぼくを捕らえる。体を押さえ込む重力を、はっきり感じる。光の森を落ちていく自分の姿が見えた。 どこまで落ちていくのだろう?

次の瞬間、ごとんと音がした。とうとう地面に落ちたのか。するとここは天国?

顔を横に向けると、分厚い株取引の参考書が胸から床に滑り落ちていた。 ソファの上に身を起こす。寝ぼけた耳を、太鼓とラッパの音がかすかに撫でている。

太鼓とラッパだって?

まだ夢を見ているのかな。自分が目覚めているのか自信がなくなった。ぼくはもう一度頭をぶるぶると振った。太鼓とラッパの音は消えない。

10月25日、日曜日。夜だ。

きょう、サマータイムが終わった。終わるとどうなるのかというと、午前2時をもって時計をいっせいに午前1時に戻すのである。

ぼくも朝起きて、左腕のカシオGショックとノキアの携帯電話の時計を1時間逆戻りさせた。寝ているだけで1時間の早起き。得した気分だ。

ふらふらとアパートを出たぼくは、自然と太鼓とラッパの音がする方向へと向かっていく。

サマータイム。街を歩きながら、ぼくは頭の中で繰り返す。 ジャニス・ジョプリンのかすれた声が頭の中で鳴り始めた。

サマータイム。 少し口ずさんでみた。

ビリー・ホリデイのオリジナルより、ジャニスの歌の方がぼくは好きだ。ジャニスの細いかすれた声は、夏の終わりを嘆くヒグラシみたいに悲しい。 もう夏が終わるの?もう、あたしたちは行かなくちゃいけないのよ。そう歌うヒグラシみたいに、悲しい。

なんだか眠い。たったの1時間時間がずれただけで、ぼくの体は変調を訴えている。血管の中で、もやのような眠気が渦巻いている。

通りにはいろいろな店が開いている。暗いウィンドウに浮かぶピザ屋やベーグル屋のネオンが、水中花のようにゆらゆら浮かんでいる。

腹が減った。時計を見るとまだ午後6時である。 体は正直だ。どうしてこんなに腹が早く減るんだろうと思ったが、考えてみるとぼくの体はまだサマータイムのまま1時間後を生きているのだ。午後7時の空っぽの胃袋の上に、午後6時の頭を乗せた男が、日の落ちた8番街をよろばい歩いている。

あたりは暗い。街灯が少ない一角に紛れ込んでしまったようだ。シャッターを降ろした商店の軒下に、黒い人影がいくつか、石像のように立ちつくしている。ぼくはジャンパーのポケットに手を入れて財布を握りしめ、足を早めた。

太鼓とラッパの音がだんだん近づいてくる。

おかしいな、ヤンキーズのワールドシリーズ優勝祝賀パレードは1週間前に終わったはずなんだけど。 なにか荘厳な音楽が交差点の向こうで鳴っている。なぜ、こんな日暮れに音楽を演奏してるのだ? 暗くて重いメロディ。どうも様子が変だ。お祭り騒ぎではなさそうだ。

葬式?

ぼくの頭を、不吉な予感がかすめた。

上から冷気が降りてきて、ぼくの首筋からTシャツに滑り落ちた。ジャンパーの襟を立てる。ビルの上の電光掲示板がいうには、気温は10度。高層ビルの隙間から見える濃紺の空に、爪のような下弦の月が冴えた光を放っている。

足を早めて角を曲がったぼくは、あっという間に人の渦に巻き込まれた。 どこからこれだけ湧いて出てきたんだろう。たくさんの顔、顔、顔……。黒い髪に浅黒い肌の人々。

人混みをかき分けて進むと、耳に飛び込んでくるのはスペイン語ばかりだ。どこかモンゴロイドに似た青年もいる。ラテン系の人々にちがいない。

通りをぎっしりと埋め尽くしている。 一歩進んでは立ち止まり、また一歩進んでは立ち止まる。集団はゆっくりゆっくりと歩いていた。誰もが頭を垂れ、おし黙ったまま歩いている。

黒い群衆の上に、白い煙が立ち上っていた。人々の頭の上を滑って、お香を燃やす匂いがこちらに来た。

月明かりと蝋燭の光で、たくさんの暗い顔が浮かび上がってみえる。もともと肌が茶色からなのか、本当に夜が暗いのか、よく分からない。

葬列。夜の街を歩く死者の群れ。そんな言葉が、ほんの一瞬だけ頭に浮かんで消えた。

次の瞬間、十字架の上のイエス・キリストがぼくの目に飛び込んできた。

イエスは、うす煙の向こうにかすんでいた。高層ビルの谷間の暗闇に浮かんだイエス・キリスト。十字架に張り付けにされ、悲しげな顔をして胸から血を流している。

太鼓とラッパの音が、また高くなった。 ぼくは足を早めた。

銀色の額縁に飾られたイエスのイコンが、神輿に乗せられて街を練り歩いているのだ。 黒服の男が30人ほど、棺桶をかつぐような暗い顔をして神輿を担いでいる。一歩進んでは止まり、進んではまた止まる。神輿が進むと人々の黒い塊も進み、神輿が止まると塊も止まる。 まるで道路にあふれ出た牛か羊の群れのようだ。

後ろを振り向くと、渋滞で道路は大混乱だ。けたたましいクラクションが飛んでくる。

「ファッキン・アスホール!」

タクシーの運ちゃんが、追い越しざまに群衆に向かって運転席から中指を立てていった。中近東系の顔を鬼のように歪めて。

人々は誰も振り返らない。顔も上げない。

蝋燭を捧げ持った老婆の顔が闇に浮かんでいた。イエスに向かって後ろ向きに歩きながら、目を閉じて何か祈っている。先導の僧侶らしき人の群が銀の香炉を振り回すと、お香の匂いがまたぼくの鼻腔を満たした。

「これは一体、何のお祭りなんですか?」

ぼくは傍らにいたおばさんに聞いた。 祈りを妨げられたおばさんは、じろりとぼくを睨んだ。なんだこの異教徒は、というふうに眉を寄せて頭を振った。

「ノー!」

そうか、英語が分からないんだ。 ぼくは片っ端からそばの人に声をかけた。が、誰もが祈りに夢中でこちらに気が付かない。気が付いても、英語が分からない。なにやらスペイン語でまくしたてるだけである。 あきらかに場違いな異教徒のぼくは、ぺこぺこお辞儀をしながらその場から逃げ出した。

ぼくはいつの間にか人々の波にさらわれ、じりじりと流されていた。

しまった。あたりを見回しても、人波に切れ目はない。たちまち路上駐車の赤いバンに体が押しつけられた。後から後から人の波が積み重なり、ぼくは布団蒸しにされたようにもがく。身動きできない。トーキョーの満員電車に乗ったみたいだ。

一体いつになったらメシが食えるんだ。頭がぼんやりしてきた。

ジャニスのかすれた声がまた耳元で鳴っている。サマータイムは終わったのよ。夏の恋も終わったのよ。そう歌っている。

ぼくはよろよろと這いつくばるようにして人垣から転げ出た。 商店のシャッターに手をついて荒れた息を整えていた。

ふと見上げると、幼児が蛍光色に光る星形のおもちゃを振っていた。人混みを当て込んで、土産物屋が出ているのだろう。何人も何人も、怪しく光る道具を掲げた子供たちの一団がこちらへ駆けてくる。

子供が走ると、おもちゃはゆらゆらと揺れて星形の光を闇に放った。深海に漂うヒトデの群れのようだ。

無数のヒトデと蝋燭の灯りに囲まれたまま、イエスは摩天楼の下を流れていく。

「これは一体、何のお祭りなんですか?」

ぼくはまた黒い人の塊に叫んだ。聞かずにはいれなかった。何人目かで、やっと口ひげをたくわえたオヤジが振り向いた。

「これはな、ペルーの聖者を祝うお祭りさ」

「なんて聖者ですか?」

「サン・ミゲル・ピエトロ…」

そう彼が言いかけたとき、カーンと鐘が鳴った。群衆がいっせいに拍手をする。イエスもヒトデも蝋燭も、ぴたりと歩みを止めた。

真っ赤なグラジオラスを捧げ持った一団がイエスの神輿にしずしずと歩み寄った。 黄色と白の菊に埋もれたイエスは、相変わらず目を閉じて血を流している。

イエスの腰の布は金糸の刺繍だ。蝋燭の火に照らされて、腰布にちりばめられた真っ赤なルビーが揺らめいた。

人々がグラジオラスをイエスに捧げる。一瞬、ビルの谷間が氷河のように静まり返った。そしてまた拍手と歓声。

「何ですって?」

ぼくはオヤジの耳元で叫ぶ。 オヤジがまた叫ぶ。口ひげが鳥の翼みたいにくわっと開いた。

「だから、サン・ミゲル・ピエトロ…」

群衆の拍手と歓声で、また彼の声がかき消された。 もういい。もうあきらめた。何だっていい。

それにしてもこの連中は、どこまで行くつもりなんだ?

ぼくは左腕のカシオGショックを見た。午後7時。1時間経った。パレードは300メートルも進んでいない。

一体、いつまで歩くつもりなんだ?

ぼくは呆然と道行く人々を眺める。 罵声を投げながら傍らを過ぎるタクシーの疾走も、人々はまったく意に介していなかった。この人の群れにだけ、なにかぼくの知らない違う時間が流れているのだ。

人いきれのせいだろう。汗が流れた。ぼくは右手で首筋の汗をぬぐい、空を見上げた。

ビルの谷間で、さっきの月が冷たい光を放っている。 少し、月が動いたみたいだ。 1時間が経って、月が地球の周りを回ったのだ。

めまいがするほど腹が減ってきた。サマータイムをまだ覚えているぼくの体は、まだメシには早い、と主張するぼくの頭を非難している。そんなの自然じゃないよ、と。

ぼくはへたへたと道ばたに座り込んだ。

そして、しずしずと歩む何千という人の群を眺めた。 この人たちも、今朝時計の針を一時間戻したはずだ。一人の例外もなく。

午前2時。街を暗闇が包み、人々が寝静まったころだ。黒服を着て暗い顔をした人々が、街にそっと繰り出し、集まる。手に手に時計を持っている。そして蝋燭を灯したイエスのイコンの前で、時計の針を戻す。いっせいに、密やかに。

カーン。全員の針が戻された瞬間、鐘が打ち鳴らされ夏は終わりを告げる。

サマータイム・イズ・オーバー。

ジャニス・ジョプリンがイエスの前に歩み出て歌う。

壊れそうなかすれ声が摩天楼にこだましている。

あれ?ジャニス、君は30年前にドラッグの打ちすぎで死んだんじゃなかったっけ?

「30年?もうそんなに経ったの?」

彼女はこっちを向いてにやりと笑う。

「どう?私って、若いままでしょう?ずっとこのままなのよ」

そう言って、小さな目をもっと小さくして笑うのだ。

ぼくはそんな儀式を想像した。 アメリカ中のストリートに人々がそっと繰り出して、時計の針を戻す儀式。

鉄道のポイントをパチンと切り替えるように、時間の流れも切り替わる。スタンダード・タイムという新しい時間に。

「サマータイム・イズ・オーバー」

ぼくは口に出して言ってみた。 ぼくの目の前を、蝋燭に照らされたイエスが通り過ぎていった。道ばたの中華料理店から出てきた中国人の女の子が、彼の悲しげな顔を珍しそうに眺めている。

冷気がまた降りてきた。秋の月が人々の頭に白い光を注いでいる。

南米の土着信仰と混じったイエスは、金銀やルビーでけばけばしく飾り立てられて、ゆっくり歩いている。白い肌がぬめぬめ光っている。

ぼくはぼんやりした頭で考える。

イエス様、きょう、サマータイムが終わったんですよ。1998年の夏が終わったんです。

イエスは何も言わない。黙って通り過ぎていく。

ああ、そうですね、イエス様。あなたの知ったこっちゃないですよね。

ぼくは一人で笑った。お腹もぎゅるると笑った。

時刻なんて、人間同士の約束事でしかないのですね。今年は1998年だ、もうすぐ20世紀の終わりだ、なんて人は騒いでいるけれど、それはあなたの生まれた年から数えただけなんですよね。

ほら、あの中国人の女の子は別の暦を使っているかもしれませんよ。さっきのタクシーの運ちゃんはイスラム教徒でしょう。彼らはマホメットが生まれた年から数えるんだそうです。ユダヤ人だって別の暦を使いますよね。ぼくみたいな日本人は「年号」というのを使います。天皇が生まれた年から数えるんです。ぼくはあまり好きじゃないですけど。

何百億年前か知りませんが、宇宙の誕生とともに時間の流れは始まったんだそうですね。そのへんの事情は、ぼくにはよく分かりません。あなたのお父様にあたられる「神様」だけが知っているんでしょう。

ぼくたち人間は、時刻とかいう約束事を勝手に決めています。あなたのお父様が作った「時間」の流れに、勝手に刻みをつけているんです。そんなことをしたおかげで、やれ締め切りだ、やれ納期だと、ぼくたち人間の生活はすっかり息苦しいものになっていました。なんだか、こっけいですよね。

カーン。また鐘が打ち鳴らされ、ぼくは我に返った。

イエスと群衆はもう通りの向こうに消えようとしていた。 道ばたに座り込んだぼくの前を、車の流れが動き始めている。

マンホールの穴から、白い蒸気が噴き出していた。風に流されて、ぼくのほうへドブの匂いが来た。

カーン。また鐘の音。澄んだ音が一直線に8番街を飛んで、セントラルパークの森に吸い込まれた。

赤いグラジオラスが人々の頭越しに揺れている。

ぼくは空を見上げた。都会の灯りに照らされた空は濃紺に輝いている。

また少し、月が宇宙を旅したようだ。月がビルの陰に隠れている。ビルの後ろから、銀色の光が漏れていた。

クレーターのあいた銀色の球体が、緑と青の地球の回りを滑る姿を、ぼくは想像した。フィギュアスケーターのように、くるくると回るのだ。

ぼくの見上げた濃紺の空は、その宇宙につながっている。そこには、人間には手出しのできない「時間」が滔々と流れているはずだ。

ぎゅるる。またお腹が鳴った。

なんだか寒い。 あと一ヶ月もすれば、冬がやってくる。

(98.10.25)





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