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隔週連載コラム「ずぼらの馬鹿力」No.001 「僕が初めて書いた記事」 多くの新聞記者がどうであるように、僕が初めて書いた記事は警察の発表ものだった。後にデビッド・ハルバースタムとの対話で教えられた「アジェンダ・セッティング」とは? |
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僕が初めて新聞記事を書いたのは、1986年4月10日だ。 約20冊のスクラップブックが、僕の部屋の本棚に並んでいる。僕が約5年間の新聞記者時代に書いた記事をぜんぶ保存してある。その「NO.1」の1ページ目の隅に、枯れ草のように変色したベタ記事がある。 「作品展での寄金 交通遺児に贈る 久居の文化教室生」。 町の公民館の書道・手芸教室の生徒が、交通遺児のために募金をした。それを地元の警察署に寄付した、というのだ。寄付の金額は二万二千九百六円、と記されている。切手のように小さな写真がついている。右側に教室の「生徒」であるおじさんやおばさんが三人。左側にいる制服の男性は、当時の警察署長だ。募金箱を手渡している。 東京本社と名古屋本社で研修を終え、僕が三重県津市のプラットホームに降り立ったのは、1986年4月9日の夜7時半だった。寝て起きて、12時間後にはもう「朝日新聞記者」の名刺を出して取材をしていた、ということになる。「研修」を受けたとはいえ、それは講堂に「××局長」とか「△△取締役」とかが出てきて「わが社の輪転機の数は」なんて話を延々しただけで終わってしまった。記事の書き方なんて、誰にも教わっていなかった。いい加減である。先輩が隣町の久居市までついて来てくれた。初めての土地に降り立ったばかりで、隣町へどう行けばいいのかさえ、まったく分からなかったのだ。 久居市は津市の隣にある人口3万人ほどの慎ましい町だった。そこの警察署が、僕の初めての持ち場だったのだ。そう、あれは久居警察署の署長室だった。 初めての取材は、今振り返ると爆笑ものだ。何が記事を書くために必要な情報か分からないから、とにかく思いつく質問を片っ端から聞いてメモするしかない。「ご家族の構成は?」とか「学歴は?」とか、どう考えても記事に関係のない質問が当時の取材ノートにびっちり並んでいる。久居市のおばちゃんたちもびっくりしただろう。記事を読むと、「36歳」とか「77歳」とかおばちゃんたちの年齢がすべて入っていて、おかしいほどの情報てんこ盛りである。 ちゃんとした一眼レフカメラで写真を撮るのも初めてだった。募金箱を手渡すポーズを取ってもらい、そこを写す。(今気付いたが、これは『ヤラセ写真』ではないか。初仕事がヤラセだったとは!)が、「これで決まった」という確信がないからアングルや絞りを変えて延々と撮る。そのうち箱を支えるおばちゃんや署長の腕が疲れてプルプル震えているのに気が付いた。記事は後で電話で聞き直すことができるが、写真はその場で失敗すればお陀仏である。こっちも必死だった。結局、ベタ記事の小さな写真のために、36枚撮りのフィルムを使いきってしまった。 あれやこれやで、どたばたの一日を終えた夜8時ごろ、支局の仕事場でぐったりしていた時だ。 「おいウガヤ君、見ろよ」 デスクが僕を呼んだ。 ファックスの機械から、文字で埋まった感熱紙が送り出されている最中だった。翌朝三重県内で配られる「三重版」の紙面だった。毎夜、締め切りが終わると、名古屋本社で製版を終えた紙面(それを「大刷り」という)が点検用に支局に送られてくる、とデスクは説明した。 隅の方に、僕の記事が出ている。それを見つけた瞬間の脳天を突き抜けるような快感は、今でもよく覚えている。歓声を上げてダンスを踊ってもいいくらいだった。何だか自分が違う人間になったような気がした。後で考えてみると、本当にあの瞬間から僕は違う人間になったのだ。ただの大学生から、自分で書いたものを人様にお金を出して買ってもらう「職業ライター」になったのだ。 2年たって僕は津市を去り、愛知県岡崎市に転勤した。そこで1年働いたあと、今度は名古屋市に移った。その間に、東京で3ヶ月間リクルート事件の取材班に入るというオマケもあった。「初めての記事」から、4年ほど経った。上司の僕の呼び方も「新人」(今思うとこれは『戦力外』という意味だ)から「若手記者」に変わり、「三重版」や「三河西版」といった地方面だけでなく、時には社会面に記事を飾るようになっていた。 が、そのうちに僕は仕事がだんだん嫌になっていた。書くテーマを自分で選べないことに神経が磨耗し始めたのだ。あの「快感」もだんだん薄れていった。 僕の「初めての記事」は、久居警察署が「こんなイベントがありますよ」と新聞各社やテレビ局に「広報」したものだった。それをデスクが僕に「発注」したのである。だから取材の現場には毎日や読売もいた。僕が公民館の人たちが寄付をします、と自分で見つけてきたわけではない。「向うから来たニュース」なのである。 転勤を重ね、取材対象も名古屋の警察や市役所、愛知県庁、大企業など大組織になると、この「向うから来るニュース」がやたらと増えた。これには二つの種類がある。 @地方に比べると都会は発生ものニュースが多い。殺した、とか強盗が入った、賄賂を取って捕まった、などの事件、はねられた衝突した、爆発したなどの事故である。 A警察・官庁・企業の売り込みが増えた。「初めての記事」のようなイベントは毎日なにかしらどこかである。みんなマスコミで自分の仕事を「広報」したがるのである。いわゆる「発表もの」だ。特に名古屋市役所の記者クラブに所属していた1年間はこの「発表もの」の処理が1日に3〜4件あって、それだけで一日が終わってしまうのが常になった。 それでも自分で見つけたネタを取材しようとあちこち歩き人に会うのだが、これは時間がかかって成果が必ずしも約束されない。「今日は何も書くネタがないなあ」と思い煩う日ほど、新聞記者にとって嫌なものはない。そんなときは、つまらない「ひったくり犯を捕まえた人を表彰しました」などという警察の発表ものが、地獄で仏に会ったようにありがたく思えたりする。新聞は毎日出るから、紙面を埋めるという仕事に責任を取ろうとすればするほど、安直な発表ものが有り難く思えてしまうのだ。 アエラに移ったあとの話に飛ぶ。アメリカの名ジャーナリスト、デビッド・ハルバースタムにインタビューをする機会があった。その時、彼が「ジャーナリストの重要な機能」として挙げたのは「agenda setting」だった。要するに、今何が問題なのか、何を議論すべきなのか、何を知るべきなのか、そのテーマを見つけて社会に提示することだ、というのだ。 この指摘には、頭を殴られたような思いがした。「発表もの」とはつまり「今社会で何が問題なのか、何を議論すべきなのか、何を知るべきなのか」を当局や企業が決めることである。ハルバースタムは、それは権力ではなく、ジャーナリストがしなければならない、と言うのである。 僕の「初めての記事」は、三重県警がアジェンダ・セッティングをした。僕はそれを下請けしただけである。これは、ジャーナリズムとは呼べない。が、僕の20冊のスクラップの中で、僕が自分でアジェンダ・セッティングをした記事は何本あるのだろう。それを考えると、スクラップブックを読み返すのが怖い。そして今日の朝刊に、記者が自分でアジェンダ・セッティングをした記事は何本あるのだろう。 (97.06.17) |
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