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■高裁へ提出されたジャーナリスト/江川紹子氏の意見書■
このような異常な裁判からは、オリコン社の格別の意図を感じざるをえません。極めて遺憾なことです」

平成20年(ネ)第2839号 損害賠償等請求控訴事件

控 訴 人 烏 賀 陽 弘  道
被控訴人  オリコン株式会社

 

陳 述 書

2008年(平成20年)8月26日

東 京 高 等 裁 判 所
第 1 6 民 事 部 ロ 係 御 中

 

(住所省略)

フリーランスジャーナリスト
江川 紹子

 

 

(1)私は、昭和57年(1982年)4月に神奈川新聞社に入社し、5年9ヶ月間社会部記者として勤務した後、フリーランスのジャーナリストとなりました。26年間にわたって、自分自身が取材・執筆するほか、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどのインタビューを受けたり、コメントを寄せることもしばしばあります。特に平成7年(1995年)のオウム真理教による地下鉄サリン事件以降は、様々な媒体にコメントを寄せる機会が増えました。こうした「取材を受ける立場」を多数経験した者としての体験や考えを述べさせていただきます。

 

(2)印刷発行された、あるいは放送された「コメント」は、筆者や新聞社、雑誌の編集部、放送局による編集が行われるので、発言者が取材者に対して行った「発言」がそっくりそのまま報じられるわけではありません。テレビでも、編集によって「発言」の冒頭と最後の部分がつなぎ合わされたり、順序が入れ替えられるようなこともよくあります。その結果、私の意図とは異なる意図やニュアンスで発言が掲載・放送されてしまうことも、時たまありました。

 また、「コメント」は、発言者が言いたい点が取り上げられるとも限りません。オウムの問題では、私は、なぜこういう集団に将来ある若者たちが引き寄せられていったのか、このような事件を繰り返さないために何をすべきか、について事あるごとに述べてきましたが、実際に紙(誌)面や番組で紹介されるのは、事件や教団関係者に対する思いを語った部分がほとんどでした。

 光市母子殺害事件のご遺族の本村洋さんとお話をした際、彼も似たような経験をずいぶんされたと聞きました。例えば、今の彼が被告人の死刑を求めているのは、単純な応報感情ゆえではなく、アメリカで死刑囚に面会したり様々な本を読んだりして悩み考え抜いた末のことで、それについて1時間以上にわたって取材を受けたのに、死刑問題を扱ったある番組は、彼の「コメント」としては「(犯人に)生きてもらいたくはない」という趣旨の一言しか放送しなかったそうです。

 このように、自分の「コメント」が、どのような文脈の中で、どういう位置づけで使われるかも、発言者は通常は分かりません。記事や番組の意図や方向性に関しても、充分に説明されるとは限りません。事前に意図をすべて明らかにしてしまうと、取材を拒否されてしまうことを恐れて、取材者がきちんと説明しないこともあります。

 説明を受けていても、記事や番組の方向性が、取材の途中で変わり、当初想定していたのとは違う文脈の中で自分の発言が使われることもあります。従軍慰安婦をめぐるNHKのドキュメンタリー番組を巡る裁判で、最高裁が取材される側の「期待権」は法律上保護されるものではないと判断しましたが、私自身も、当初聞かされ、期待していたのとはまったく違う趣旨の記事の中に「発言」が「コメント」として引用されたことがありました。

 今でも忘れられないのは、坂本弁護士一家が行方不明になった(当時は、まだ殺害されたとは分かっていなかった)事件の後に、私がある週刊誌から取材を受けた時のことです。警察はまだオウムへの捜査を行っておらず、坂本事件はオウムの犯行と断定はできませんでしたが、この事件以外にも、私は元信者の話などからこの教団が問題の多いカルトであると考え、それについて本を書いたり、公の場で発言をしておりました。その週刊誌の記者も、私と同様に教団の問題性を感じたと述べ、私に「コメント」をするよう求めてきました。記事で紹介された私の「コメント」、つまり「」(カギカッコ)の中身は、不正確な引用ではありませんでしたが、記事全体は、私が言うこととオウムが言うことはどっちもどっちで、こういう面白いケンカが起きている、というトーンでした。話が違うのではないかと書いた記者に問いただしたところ、オウムが問題のある団体と判断するのは早いという編集長の判断で、そのようになった、という説明を受けました。

 取材をされる側としては、必ずしも納得はいきませんし、編集長の判断は間違っていたと思うのですが、特に雑誌の場合は、ことほど左様に編集長(編集部)の権限は強いのです。

 このような見込み違いでなくても、書き手と編集部(編集長)の判断にずれが生じ、編集部から手直しが求められることは、そう珍しいことではありません。取材を進めるに従って当初は分からなかったことが分かってきて記事の方向性が変わってくるということはあります。

 そうした経緯は通常、「コメント」のための取材に応じて「発言」した者にいちいち報告されません。

 できあがった「コメント」を使うかどうかも、筆者や編集部、放送局の判断です。長時間にわたって取材に応じたのに、一言も掲載・放送されない、ということもあります。そもそも、そのテーマの番組や記事自体がボツになることはしばしばです。他に大きく取り上げたい話題があったり、取材が不十分だったり、編集部や放送局の方針とそぐわなかったり、様々な理由で掲載・放送が見送られます。

 発言者が取材者の質問に答えた「発言」は、料理で言えば、いわば素材です。それをどのような料理にするか、あるいは上手な料理になるかどうかは、調理人の考えや腕に委ねられるように、「コメント」そのものを使うか使わないか、「発言」をどのようにまとめ、どのような位置づけで、どのような趣旨の記事・番組にするかは、筆者やディレクター、最終的には編集部や放送局の考えや力量次第です。そうした権限があるからこそ、責任も重いのだと思います。もし、記事や番組によって他人の名誉を傷づけられるような事態が引き起こされた場合に、最終的な責任をとるのは新聞社・出版社・放送局でありますし、これまでそうした裁判では、必ずそうしたメディアが被告になってきました。

 私は、オウムのほかにも、ライフスペースという団体に名誉毀損の民事裁判を起こされたことがあります。この時は、テレビ番組のためのコメントの中で同団体を「カルト」と呼んだことで、そのテレビ局ともども訴えられたのでした。裁判所の適切な判断により、いずれも私の主張が認められましたが、オウムやライフスペースのようなカルト集団でさえ、コメントや執筆をした私だけでなく、テレビ局や出版社といったメディアを共同被告にしていました。

 にもかかわらず、オリコン社ともあろう社会的にも評価されている会社が、今回の裁判のように、記事を執筆した筆者や掲載された出版社は訴えず、もっぱら取材者の質問に答えただけの烏賀陽氏を被告とする異常な裁判を起こしたことには、大いに驚きました。

 しかも、出版社や烏賀陽氏に対して訂正の要求をすることもなく、いきなりの提訴であり、損害賠償額も5000万円と、その経緯においても金額においても、きわめて異常と言わざるをえません。個人で活動しているフリーランスのジャーナリストにとっては、こうした裁判は経済的にも時間的にも精神的にも大きな負担となります。仕事にも支障が出てきます(私もそうでした)。

 このような異常な裁判からは、オリコン社の格別の意図を感じざるをえません。極めて遺憾なことであります。

 それにも増して、ここまで極めて異常な訴えを東京地方裁判所が認めてしまったことには、大きな衝撃を受けています。

 この記事全体の正確性については、私はポピュラー音楽の専門家ではないので論評いたしません。ですが、仮に何らかの問題が生じているとしても、その記事は編集長の責任において出されたものであります。

 なぜ、記事がもたらす結果について、一番権限があって責任の重い編集長や出版社、その次に責任のある筆者を除外して、コメントを寄せただけの烏賀陽氏が責めを受けるのでしょうか。

 著しく正義に反します。まったく納得がいきません。

 

(3)このような判決が確定してしまえば、取材に応じた途端に、記事や放送への連帯責任どころか、記事や放送の全体像を知らないまま、コメントを寄せた者が唯一の責任を負わされる、ということになってしまいます。

 コメントを依頼してくるのは、知り合いのジャーナリストばかりではありません。会ったこともない記者から、電話でコメントを求められることがしばしばです。

 大きな事件や裁判の判決などを報じる新聞記事に添えられている、いわゆる「識者談話」(コメント)は、大半がこういう電話取材をもとに、記者がまとめたものです。雑誌に掲載される「コメント」も、特に締め切りが近い時などは、電話取材で行われることがよくあります。

 また、面会をしてインタビューに応じる場合でも、記事の全体像を知らされることはまずありません。調査報道の場合は、記事の全体像は、取材を重ねていく中でできあがるわけで、取材を始めた当初と記事や番組にまとまった時点では方向性が異なってくることもあるので、取材の前に最終的な記事や番組の全体像を教えてもらうことは不可能です。

 しかし、今回の東京地裁判決が確定すれば、取材に応じただけで訴えられたり、高額の損害賠償を命じられたりすることになってしまいます。そのようなリスクの高い行為は避けたいのが、人間の当然の心情ですから、多くの人は取材に協力することに二の足を踏むでしょう。

 これでは、取材そのものができなくなります。

 ジャーナリズムが生き生きと機能していることは、健全な民主主義社会を維持・発展するために不可欠ですが、そのためには広範で自由な取材活動が行えることが前提です。それができなくなれば、ジャーナリズムの弱体化を招き、人々の知る権利が損なわれ、ひいては民主主義は健全に機能しなくなります。

 もし、発表された記事や番組に間違いがあり、話題となった人や企業や団体に損害を与えた場合には、まずは出版社・放送局や筆者・プロシューサーなどは、その損害の回復に務め、場合によってはそれなりの償いをしなければならないのは当然です。

 しかしながら、取材対象者だけに責めを負わせる東京地裁判決が確定すれば、日本のジャーナリズムは大きな危機に瀕し、日本の社会そのものが弱体化していく危険性がおそれがあります。

 そういう意味でも、この裁判の持つ意味は大きく、多くのジャーナリストが注目しております。

 東京高等裁判所が、正義と公平、公正に基づいた判断をなされることを強く望みます。  

 

                         以 上





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