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■オリコン訴訟 東京地裁判決のポイントと烏賀陽の所感■
「被告(反訴原告)は原告に100万円を支払え。双方のその余の請求を棄却する」 17ヶ月間続いたオリコン訴訟の、東京地裁での判決言い渡しはわずか数分だった。4月22日、709号法廷で綿引穣裁判長が判決主文を言い渡すと、一瞬、法廷にとまどいの空気とヒソヒソ声が広がった。「えっ!?」「烏賀陽さんの負け?」「まさか!」 月刊誌『サイゾー』の電話取材に答えただけのフリージャーナリスト烏賀陽弘道に対し、ヒットチャートの会社オリコン(小池恒社長)が「5000万円払え」と提訴した裁判の1審は、誰も予想だにしない烏賀陽側敗訴の判決が出た。オリコン側さえ想像しなかったのか、判決言い渡しの法廷にオリコン側代理人は誰もいなかった。 判決を聞きながら、烏賀陽は思った。「これは中世の魔女狩りか、スペインの異端審判か何かか? 日本は民主主義国のはずじゃなかったのか? 民主主義を守る砦のはずの裁判所が民主主義の破壊に手を貸すとは、この倒錯した世界は一体なんだ?」。そしてふと思い浮かんだ。「民事訴訟にも冤罪ってあるのだな」と。 というわけで判決後、烏賀陽は「この裁判は、たまたまオリコン対烏賀陽という形を取っていますが、本質は言論の自由と民主主義を守ろうとする者と、裁判制度の悪用で民主主義をぶち壊そうとする者との争いです。屈服することは、この国の民主主義の死を許すことになります。私はわが祖国の民主主義が死ぬのを見るのはイヤです。屈服しません」ときっぱり語った。そして5月2日、東京高裁に控訴した。 この判決はなぜ危険なのか。
(1)取材源ひとりに責任を負わせる暴論 今回の判決が前例としてまかり通れば、フリーランス、社員ジャーナリストを問わず、取材や報道という活動そのものに重大な制約となりかねない。 綿引裁判長の判決のポイントは次のような内容だ。 ●オリコンのヒットチャートの信憑性に疑問を投げかけた『サイゾー』掲載のコメントは、オリコンの名誉を低下させるもので名誉毀損にあたる。 (烏賀陽の反論:私が書いたものでもなく、掲載に同意もしていないものに責任は取れません) ●コメント内容には真実性も真実相当性も認められない (烏賀陽の反論:取材ノートも私の法廷での証言も信用できないと言われたら、記者は何を証拠に名誉毀損訴訟と戦えばいいんですか?)。 ●不法行為者が複数いる場合、不法行為の被害者はすべての不法行為者を訴える義務はないので、オリコンが出版社を訴えず烏賀陽さんだけ訴えたことに問題はない。 (烏賀陽の反論:出版物は取材源だけでなく、話を聞いて書いた記者、内容をチェックする編集者たちの共同作業として出来上がる。責任分担もはっきりしている。その作業は分かちがたく結びついていて、分離すること自体が現実を無視している。それを強行しようとするこの裁判官は出版の仕事に無知なのではないか?) ●謝罪広告までは必要ないが、オリコンの損害は100万円なので烏賀陽さんに支払いを命じる。 (烏賀陽の反論:サイゾー編集部、インフォバーン社を訴えずに、情報源である烏賀陽一人に責任を課すなんて奇態を許すのなら、訴訟を起こした者が攻撃対象を恣意的に選べるってことじゃないか。つまり、裁判所は『訴えたモン勝ち』を認めるってことか?) ●オリコンによる提訴が訴訟権の濫用=違法だとして烏賀陽側が起こした反訴は棄却する。 (烏賀陽の反論:オリコンはプレスリリースまで出して『この訴訟の目的は名誉毀損の損害回復ではなく、烏賀陽の発言を過ちと認めさせ、謝罪させることだ』と公言しているのに、これが訴訟の濫用でないなら訴訟権の濫用なんて民事訴訟法の条文は死に法だ) つまり、取材者や記事執筆者、編集者の責任は一切問わず、ニュースソース=「取材を受けた人」にすぎない烏賀陽一人に名誉毀損の責任をすべて負わせる、という判決内容なのだ。 この「情報提供者(烏賀陽)の不法行為責任」=「ニュースソースが名誉毀損の責任を負うのはどんな場合か?」を綿引判決はどう判断したのだろうか(東京地裁が司法記者クラブを通じてマスコミに配布した判決要旨による)。 まず、綿引判決は「情報提供者(取材源)は原則として名誉毀損の法的責任を問われない」と前置きしている。ところが、次に一転してこんな判断の基準を示した。 「取材に応じた者が、自己のコメント内容がそのままの形で記事として掲載されることに同意していた場合、又は、自己のコメント内容がそのままの形で記事として掲載される可能性が高いと予測しこれを容認しながらあえて当該出版社に対してコメントを提供した場合」は「例外的」に責任が問われる。烏賀陽は掲載に「同意」したのだから責任が生じる。 この判断基準が綿引判決のセールスポイントらしい。だが、少しで「人から話を聞いてまとめる」という形の取材の実態を知る者であれば、この「コメント内容がそのままの形で掲載される」という綿引判決の表現からして首を傾げるに違いない。 議会での質疑や講演をほぼそのまま採録するようなケースは別として、媒体(出版、放送、インターネット問わず)に掲載されるほとんどの「コメント」は、記者の手で要約され、取捨選択され、文章化されるのが常だ。話したことをテープ起こしのように「そのまま」掲載することなどありえない。 「映画における『絵』はノンフィクションにおける地の文であり、『声』は登場人物の証言や台詞である。故・三島由紀夫は地の文と台詞の関係を波にたとえている。波は地の文であり、それに堪え切れずに白い波頭にくだけるとき、台詞となる」(佐野眞一『私の体験的ノンフィクション術』集英社新書、55ページ)などと言われるように、どういうコメントをいかに使うのかということは筆者(ないし編集者)による創造的表現行為そのものであって、通常、取材に応じた人が決められるものではない。 くどいようだが、烏賀陽は当該の「サイゾー」の記事に一文字たりとも書いていない。質問をして、それに答えた烏賀陽のばらばらの言葉をかき集めて当該の「コメント」をまとめて書いた筆者は、サイゾー編集部のK副編集長である。つまり烏賀陽は「取材された人」=情報源である。 ところがKも「サイゾー」も、当時の発行元「インフォバーン」社も、オリコンから何の責任も問われていない。 しかも本件の場合、烏賀陽は当初サイゾー編集部Kから記事の主旨を説明されていない。「ジャニーズについて教えてほしい」「ジャニーズとオリコンの関係を教えてほしい」と再三依頼されても「ジャニーズについてはまったく知らないので」と、ジャニーズとの関連で引用されることを拒否している。「オリコンについて一般的知識でいいから教えてほしい」とKに再三懇願され「3年前に取材した古い話ですが、それでもいいんですか?」と念を押して、それからさらに「記事の全体像と発言の引用がどういう形になるのか明確にならければ、掲載に同意しないが、その前提でもいいのか?」と念を押してから「一般論として」質問に答えている。 烏賀陽も取材経験が20年に及ぶので、電話取材が対面取材に比べ不正確になりがちなことは先刻承知しており、冒頭からこの取材には慎重だったのである。それでも烏賀陽が断らなかったのは、Kが烏賀陽の旧知の編集者の名前を出して、その紹介だと言ったからである。つまり烏賀陽の善意につけ込んだのだ。 それが、不安になって烏賀陽が「記事の主旨もどういう形でぼくの発言が引用されるのかも分からないので、説明してほしい」と依頼すると、Kは記事の全文をメールで送ってきた。 それを見て烏賀陽が仰天したのは、記事の主旨がいつの間にかすり替えられ、自分の発言を加工した「コメント」が、ジャニーズ批判特集のなかで掲載されていることを発見したからだ。つまり「オリコンはジャニーズに甘い」という論旨に烏賀陽しゃべった内容を加工した「コメント」(しかも烏賀陽の本意からは著しく逸脱していた)が使われていたからだ。 烏賀陽はただちにサイゾー編集部Kに電話し、約束違反を抗議し、掲載をはっきりと拒否した。渋谷の編集部近くの喫茶店まで出向いてまで「載せないでほしい」と訴えている。ところがKは「締め切りを過ぎている」「今から烏賀陽さんのコメントがなくては記事が成立しない」と言い訳し、掲載を強行してしまった。 綿引判決の基準に照らしても、この事実のどこが「烏賀陽は同意した」ことになるのだろう。むしろ事実は逆である。この経過について、烏賀陽は法廷で宣誓下一部始終をはっきり証言したのに、綿引判決はこれをまったく無視した。 突然かかってきた電話での質問に善意で答えただけで損害賠償を課される。「取材に答える」という行為は、ジャーナリストや学者といった職業の人々だけでなく、ごく普通の市井の人々にも起こりうる話だ。こんな判決が確定すれば、取材に応じる人はほとんどいなくなりかねない。
(2)取材源秘匿判例を無視 取材で話した内容を裏付ける烏賀陽さん側の証拠を、取材源秘匿を主な理由として「その(烏賀陽さんが話を聞いた)レコード会社員らが誰であるのかも明らかにされていないから、到底措信できない」と退けた点にも大きな問題がある(烏賀陽は取材の年月日も場所も特定できるし、当時の名刺も残っていると法廷で証言したが、これも無視された)。 言うまでもなく、取材源の秘匿はジャーナリズムの生命線であり、公権力や企業などが隠している真実を掘り起こし社会に知らせるために欠かせない職業倫理である。 北海道新聞記者の証言拒否の是非が争われた事件で、最高裁は、「新聞記者の側と情報を提供する側との間において、取材源を絶対に公表しないという信頼関係があって、はじめて正確な情報が提供されるものであり、従って取材源の秘匿は正確な報道の必要条件であるというべきところ……『職業上ノ秘密』に該る」と判断し、証言拒否を認めている(1980年3月6日、最高裁第3小法廷決定、『判例時報』956号、32ページ〜)。 こうした最高裁決定の趣旨からすれば、「取材源を明かしていない=信じられない」と決めつける綿引判決は判例を無視しているというほかない。 「その話は▲という会社の××さんから聞きました」などと、取材源を法廷でぺらぺらしゃべるような口の軽い、秘密の守れない記者を、誰が信用するだろうか。誰が秘匿性の高い情報など教えてくれるだろうか。そうやって取材源がバレたら、今度はその取材源が組織の中で報復されたり、不利な扱いをされたりするかもしれないのだ。取材相手を守る、取材源を守ることは取材記者の鉄則中の鉄則である。
(3)恫喝的訴訟(SLAPP)にお墨付き さらに驚かされるのは、オリコンによる提訴が威嚇目的であり、訴訟権の濫用だと訴えた烏賀陽さんの反訴を退けた理由である。綿引判決はこういう。 「原告(オリコン)が5000万円の損害賠償を求めている点も、一般に、名誉毀損訴訟においては、損害額が比較的高額に設定されるのが通常であって、請求額と認容額との間にかなりの差が生じることも稀ではない。したがって、原告が5000万円の損害賠償を求めていることをもって、本訴の提起を違法とすることはできない」 (烏賀陽訳=名誉毀損訴訟じゃ、原告が損害額を高めに設定するのは珍しくないよね。だから、判決の額と大きな差が出ることもよくあることだよ。だから、よくあることだから、オリコンの提訴は違法じゃないよ) つまり、現実に被ったよりはるかに巨額の「損害」を裁判を使って吹っ掛けてもいいという主張だ。「稀」であるかどうかで、是非が決まるという理屈が滑稽でさえある。 烏賀陽という個人だけを、出版社や編集部から切り離して訴えると、5000万円という金額を個人が請求されるときに感じる恐怖感と、それが生む恫喝効果に、綿引判決はまったく思いが至らないらしい。 「また、一般に、訴訟を提起しようとする者がそれに先立つ事前交渉を行う義務を負担することはないし、また、名誉毀損に対する対抗言論の手段を持つ者が訴訟提起の手段を自粛する義務を負うわけでもない」 (烏賀陽訳=訴訟を起こす前に、何か交渉しなくちゃいけないなんて義務はどこにもないよ。対抗するメディアを持っているからといって、それを使って反論しなくちゃいけないなんて義務もどこにもないじゃないか) 「言論には言論で応える」という表現の自由をめぐる歴史のなかではぐくまれてきた基本的理念や民主主義のイロハを解さない理屈だ。裁判官がここまで民主主義の原則に無知だと、本当に怖くなってくる。 この判決は「記者個人を相手に恫喝的高額訴訟をじゃんじゃん起こしてもかまわないよ」と裁判所がお墨付きを与えているのに等しい。 今ごろどこかで、疑惑政治家や問題企業が高笑いしているだろう。 「もうおれたちは疑惑をマスメディアに書かれてもどうってことはない。記者個人を会社から引き離して名誉毀損で高額訴訟をふっかけて、記者をイジメればいいんだから。ありがたいねえ。それを裁判所が認めてくれたよ! ありがとう、綿引裁判長!」
(『アジア記者クラブ通信』Vol.190/2008年5月5日号掲載のジャーナリスト・北健一さんの記事にご本人の許諾を得て烏賀陽が加筆。080507掲載)
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