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■「朝日叩き」が見えなくする「ジャーナリズム腐敗」の本質〜システムとしての「朝日だけバッシング」考■
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朝日新聞社のスキャンダルや不祥事、論調批判の記事を掲載した週刊誌や月刊誌を、熱心に読む。職場で、会社近くの居酒屋や食堂で「あの記事、読んだ?」と嬉しそうに話題にする。朝日に勤務していたころ、ぼくの周囲にはそんな同僚が多かった。 東京本社ビルの中にあった小さな書店でも、注意して見ていると、そういう記事を掲載した雑誌は減り方が速い。つまり売れ行きがよかった。出社し「週刊××にまた何か出ているらしいよ」と同僚に聞いて、あわてて買いに走ると、発売日なのに売り切れ。 当時職場だったアエラ編集部に戻っても、定期購読しているはずなのに、誰かが持って行ってしまったらしく、見当たらない。見回すと、隣に座っている同僚が記事のコピーを読んでいたので、それを回し読みさせてもらった。そんなこともあった。「出先の記者クラブ(記事にはまるで関係のない部署だったと思う)にいる先輩に頼まれた」と言って、記事をファクスで送っている同僚の姿を見たこともある。 朝日の人って、朝日批判の記事を読むのが好きなんだなあ。そんな経験を何度かするうちに、ぼくはそう思うようになった。そして、その気持ちの一部は理解できた。 なぜかというと、正直に告白するが、そういう朝日批判の記事を読むと、奇妙な陶酔感をぼく自身も感じたからだ。何と表現すればいいのだろう。「朝日社員が酒場で殴り合いのケンカ」というような小さな事件でも仰々しく週刊誌の記事になっているのを見ると、何か自分が「そんな些細なことでもニュースになる特別な集団に属している」という、歪んだ自己愛のようなものを感じてしまうのである。 「世間の目の敵にされている」というような悲壮感も、あまりなかったように思う。社員数が5000人を超えるような大組織だし、社員は全国に散らばっている。セクショナリズムも強いので、直属の部署で起きた事件でもない限り「自分たちの問題」という意識が薄いのだ。 「天下の朝日新聞」「エリート集団・朝日」。朝日批判記事は、だいたいそういうクリシェを多用する。まずホメるのである。そして、そんな「そんな朝日ともあろうものが、××するとはけしからん」と持っていく。報道された事件の当事者は別として、こういう書かれ方をすると、書かれたこちらはけっこういい気分なのだ。そうか、オレはそういう特別な集団の一員なのか、と。 そういう批判記事をよく掲載する週刊誌にいる友人に聞いてみると「あれが毎日か讀売だったら記事になりませんね」「朝日批判は売れますからねえ」などと言う。 つまり、批判を書く方は売るために朝日を持ち上げる。一方、書かれた側の朝日は、批判されているのに、自分たちを文面通りの「エリート」だと勘違いし続ける。そんな、なんとも奇妙な「共依存」が両者の間には成立している。 ぼくが十月に出した「『朝日』ともあろうものが。」という本のタイトルは、そういう朝日批判の決まり文句を、そのまま拝借した。 詳しくは拙著を読んでいただきたいのだが、そういう、朝日新聞社を何か人並みはずれて高潔あるいは優秀な人間の集団であるかのように勘違いする「朝日ともあろうものが幻想」こそが、そもそも間違いの始まりなのではないか。そういう幻想こそが、朝日の内部への無関心を呼び、腐敗や不正を招いたのではないか。そう問題提起したかったのである。 朝日で十七年を過ごしたぼくは、かつての同僚や先輩たちがそんなスーパーエリートでも何でもなく、ごく平凡な「普通の人たち」が圧倒的に多いことを知っているからだ。 また一方、あちこちで強調しているのだが「『朝日』ともあろうものが。」は「朝日バッシング」の本ではない。 この本で取り上げた事柄は、記者クラブ、紙面を自社の利益のために私物化すること、夕刊の弊害、捏造、自主検閲、上司のパワーハラスメント、ハイヤーを乗り回しているとどう気持ちが変化するか等々、朝日だけに限らない、新聞・テレビをすべて含めたオールド・メジャーマスコミすべてに共通する問題のはずである。ぼくが問題提起したいのは、そうしたオールド・メジャーマスコミすべての制度疲労であり、腐敗や不正なのだ。 国民の知る権利の代理人、エージェントであるマスメディアの内部で何が行われているのか、クライアントである国民はもっと知るべきだし、もっと関心を持ってほしい。そんな議論のたたき台として、ぼくは自分の体験を語ることにした。そして、そのぼくの勤務先はたまたま朝日新聞社だった。それだけのことである。 だから、拙著をきっかけに、他の新聞社やテレビ局の内部についても、もっと語る人が出てきてくれないか。真剣にそう願っている。そしてそこには、マスメディアだけでなく、日本型組織で働くすべてのサラリーマンにとって切実な問題がたくさん含まれているはずだ。これは拙著でも自分のウエブサイトにも書いているけれど、繰り返し強調しておく。 ところが、事はなかなか思った通りには運ばないのだ。刊行後、ある人に「ウガヤさん、朝日バッシング本出したんですってね」と真顔で言われたときは、全身の力が抜けた。 まあ、運が悪かった。刊行日はずっと前に決めてあったのに、NHK番組改編問題、長野支局取材メモ捏造事件と、朝日をめぐる一連の騒動がなぜか続々と起きて、それを追う形になってしまった。 それにしても、この「朝日だけバッシング」という論調がまるでひとつの「ジャンル」になってしまい、しかもそれが強力な磁力を放っているという現象そのものに、ぼくはひどく戸惑っている。昔からそういた傾向はあったが、NHK事件あたりから一層ひどくなった。拙著までその磁力に吸い込まれ、「そのひとつ」にされてしまいそうだ。 一体これは何なのだ。 もちろん、NHK問題や、長野事件のように、朝日が当事者である場合、批判されるのは、ある種当然だろう。 だが「朝日が病んでいるから、日本のマスメディアに問題が起きている」「朝日の問題が解決すれば、マスメディアの問題はすべて解決する」とでもという言説は、問題のすり替えでしかない。それどころか「本当に病んでいるものは何か」から目をそらせてしまうという点で有害ですらある。朝日が抱える病気は、新聞・テレビをすべて含めたオールド・メジャーマスコミすべてに共通する宿痾なのだ。 「朝日だけバッシング」の陰で、「やれやれ、矛先がこっちに来なくてよかった」と胸をなで下ろしている連中がいることを忘れてはならない。 (05.12月発売「別冊宝島1238 戦後ジャーナリズム事件史」より)
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