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■「『朝日』ともあろうものが」について■ |
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05年10月31日、徳間書店から「『朝日』ともあろうものが。」という本を出します。今年3月の「Jポップの心象風景」(文春新書)、4月に出した「Jポップとは何か〜巨大化する音楽産業」に続いて、ぼくにとっては3冊目の本です。 前二作が日本のポピュラー音楽について分析した本だったのに比べると、今回はずいぶん毛色が違います。ぼくの十七年間の朝日新聞社勤務時代の思い出話をつづった本だからです。 「なぜ自分は記者になろうと思ったのか」という中学・高校のころの話から説き起こし、入社して三重県に赴任し、名古屋やアエラ、ニューヨークでの勤務を経て、最後は40歳で会社を辞めるに至るまでの間に経験したいろいろなできごとを「ぼく」という一人称で語っています。つまりこの本は「烏賀陽弘道という人間が、23歳で朝日新聞社に入社してから、40歳で退社するまでを、本人が語った物語」なのです。 目次はこんな具合です。 *まえがき *ぼくはなぜこの仕事を選んだのか *みじめでまぬけな新米記者 *パワハラ支局長 *高校野球報道って偏向じゃないの *記者クラブには不思議がいっぱい *夕刊は不要どころか有害 *朝日の人材開発は不毛の荒野だった *ぼくが初めてハイヤーに乗った日 *捏造記事はこんな風につくられる *上祐へのインタビュー原稿がオウムに渡っていた *「前例がない」の一言でボツ *かつて愛した恋人、アエラ *さようなら。お世話になりました。 この目次と「『朝日』ともあろうものが。」というタイトルだけを見ると、まるで「朝日新聞社攻撃の本」のように思えてしまうかもしれません。実際に、数あるマスメディアの中で、朝日新聞社ほど批判の対象にされる企業は他にありませんし、そういう朝日批判の論陣を張る人たちやマスメディアがたくさんおられることも承知しています。また実際、今回ぼくが書いた本の中にも、ぼくが見聞きした朝日新聞社についてのネガティブな事象がいくつか出てくるのも確かです。 そういう誤解を受けやすいことは承知していますので、この場ではっきりお断りしておきます。「『朝日』ともあろうものが。」は朝日バッシング、朝日攻撃の本ではありません。ぼくが、この本を通して、本当に読者のみなさんに考えてほしいと思ったのは、「朝日の病気」ではありません。ほかの新聞社や、通信社、テレビ局を含めた「日本のオールド・メジャーマスコミすべてがかかえている病気」なのです。そして、そこで苦しみ、悩みながら働く記者たちのことなのです。 (そういえば、本の「帯」に「『捏造は当たり前』『偏向は常識』が朝日の社風?!」という文言が並んでいますが、これはぼくが書いた文ではありません。出版社が考えたものです。ちょっと言い過ぎではないかと思い、直してほしい旨を伝えたのですが、「帯は出版社のものですから」という説明で、そのままになりました。ですから、帯の文言はぼくの文責ではないことをお断りしておきます) 朝日が抱える「病気」は、日本のメジャーマスコミならどこもまず間違いなくかかえている共通の宿痾です。その病歴はすでに長く、全身に転移していて、現場にいたころのぼくは、一体どこから手を付ければこの病気を少しでも快方へ向かわせることができるのか、途方に暮れました。その病巣は化石のように固まっていて、ただのヒラ従業員でしかないぼく一人の手に負えるものではなく、自分なりに、少しでもこの組織を良くしていきたいと願ったぼくは、悪戦苦闘のすえ、ひどい無力感と絶望感に打ちのめされました。 ところがこれまで、この巨大な「病気」が、現場の記者たちをどれほど苦しめ、悩ませているか、彼らが自らの手で書いたものはほとんどありませんでした。日本のマスメディアに勤務すると、どんな日常生活が待っているのか。どんな価値世界に入ることになるのか。そんな話は、書かれたことがほとんどありませんでした。記者たちが日々どんな環境にいるのか、語られることはほとんどありませんでした。 また一方、これはこんなことをも意味します。マスメディアは、読者の「知る権利」という、とても重要な基本的人権のエージェントであるはずなのに、その内部に読者の目が届くことは、今までほとんどなかった。クライアントは、その権利を付託したエージェントがどんな活動をしているか、知る権利がありますし、もっと知ってもいいのではないのでしょうか。 ぼくは、退社した今も、ひとりのジャーナリストです。ぼくは、この仕事の職責として、自分が見聞きしたものは、読者への報告の義務を負っていると考えました。そして、それを「日本のオールド・メジャーマスコミすべてがかかえている病気」について考えるきっかけにしてほしい。それがこの本を書こうと思い立った動機です。 朝日について書いたのは、たまたま、ぼくが勤務した先が朝日新聞社だったからにすぎません。「日本のオールド・メジャーマスコミすべてがかかえている病気」について論じたいのに、朝日以外のことを書かないのは、ただ単に「よその会社のこと」を書けるほどには知らないからです。「とりあえず、ぼくはぼくの経験を語ります。だから、それを日本のオールド・メジャーマスコミの病気を検査する手始めの材料にしてくれませんか」。そう願っています。 このところ、NHKの番組改編記事問題、長野支局の取材メモねつ造事件と、朝日新聞社にまつわるスキャンダルが続いていることは承知しています。が、この本は、その流れに乗じた「朝日バッシング」の本ではない(原稿は昨年夏にはできあがっていました)。「朝日バッシャー」の戦列に加わる気もありません。それはこの場できっぱり否定しておきます。 「朝日は腐っている!」などとは、ぼくは言いません。「朝日新聞社の従業員の中には、腐敗した人もいます。が、尊敬すべき清廉な人もいます」と、ぼくなら言います。「朝日はねつ造の常習犯」などとも、言いません。「朝日新聞社の中には、ねつ造をする人もいます。が、それを唾棄すべき行為として軽蔑し、一生無縁で過ごす人たちもいます」と、ぼくなら言います。ぼくは知っているのです。その会社の内側にずっといたのですから。 本音でいえば、本を書いている間も悩み、苦しみ続けました。本を出そうというまさにこの瞬間も、苦しみは終わりません。十七年という、自分の人生の半分近くをすごした組織です。素晴らしい友人もたくさんいれば、良い思い出もたくさんあります。いや何より、ぼくを書き手として訓練し、育ててくれたのは、間違いなく朝日新聞社です。その感謝の念は、一生消えることはないでしょう。 しかし、「問題は何もありませんでした。何もかも良い経験でした」と沈黙してしまうこともまた、ぼくにはできないのです。ぼくは、見たくないものを、あまりにもたくさん見過ぎてしまいました。 このふたつの思いに、ぼくは葛藤し、引き裂かれています。 どうかぼくの意図と、そして苦しみが、読者のみなさんに届きますように。そう願っています。 (05.10.28)
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