logo_s.gif (1064bytes)



■勝手に対決させちゃうぞ!■
「世界の中心で、愛を叫ぶ」vs「いま、会いにゆきます」

 

【映画】行定監督の手腕の勝利により「セカチュー」の圧勝。はい、それでは審査委員会(っておれ一人じゃん)の寸評です。

 映画「セカチュー」は、原作とは別物といっていいほどの改変が加わっている。この改変ぶりが見事なのだ。脚本も自分で書いた=つまり原作からの改編も自分で考えた=行定(ゆきさだ)勲監督の手腕の勝利である。

 文学作品の映画化としては、きわめて難しいハードルをクリアした好例ではないだろうか。映画単体としても、じゅうぶん成立するクオリティである。もっとはっきり言ってしまえば、原作より映画のほうが魅力的、とさえいえる。

 小説「世界の中心で、愛を叫ぶ」は最初から最後まで、高校生である主人公・朔太郎の物語だ。朔太郎=「ぼく」が、同じく高校生であるアキと恋に落ち、白血病でアキを失うまでを、まったく年代を設定しないまま語っている。朔太郎が成人してからの物語は、206ページ中わずか4ページにすぎない。つまり物語の時系列は、高校生の主人公が「過去」を「現在」として語り、成人後の「未来」はほとんどエンディングにちょろりと出てくるにすぎない。

 ところが映画では、これががらりと反転する。成人し、おそらく30歳代なかばの朔太郎が主人公(大沢たかお)であり、ストーリー・テラー(物語の進行役)である。彼が、失踪した恋人・律子(柴崎コウ)を追って故郷を訪ね、そこで過去のアキ(島崎まさみ)との物語を追体験する、という設定になっている。観客は、現在の「成人した朔太郎&律子のラブストーリー」と、過去の「高校生の朔太郎&アキのラブストーリー」を、ほぼ同量、交互に見るわけだ。

 この「律子」は原作には登場しない。厳密に言えば登場するが、前述の通りその記述はわずか4ページ。名前も出てこない。つまり行定監督が創作したキャラクターである。

 これが非常にうまい。失踪した恋人なり友人なりを追って主人公が旅に出て、その過程で何らかの成長を遂げる。そんな「通過儀礼(イニシエーション)の物語」は、村上春樹が頻繁に使う物語構造だ。観客は、主人公が失踪した恋人を探し当てることができるのかどうか、というサスペンス(結果がわからず、宙ぶらりんな状態の物語進行)に引きずり込まれ、ストーリーを追わざるをえなくなる。

 あとで詳しく書くが、この「朔太郎の現在の恋人・律子」を設定したおかげで、映画「セカチュー」は原作の「過去に恋人を亡くした男の回想録」という単純な物語構造からがらりと変わってしまった。立体的な奥行きを出すことに成功しているのだ。もっと詳しく言うと、平屋の家屋が3階建てになり、それぞれの階で劇が演じられるような、重層的なストーリー展開が実現してしまっているのだ。

 そしてもちろん一方、原作の小説通りのストーリーも進行する。過去の高校生の朔太郎と、不治の病に侵されたアキの二人がどうなっていくのか、という物語である。これも「結末がどうなるかわからない」という意味でサスペンスである。

 実は、原作が大ベストセラーになった時点で、映画の観客はあらかじめ結論(アキが死ぬこと)を知ってしまっている。あるいは途中で予測できてしまう。とはいえ、これがもうひとつ観客がストーリーに引きずり込まれざるをえないサスペンスであることは間違いない。二人はどのようにして恋に落ちるのか。いつ、どんな形でアキは死ぬのか。朔太郎は死にゆくアキにどう接するのか。

 つまり、この映画はダブル・サスペンス構造である。映画2本分楽しめちゃうのだ。

 さらにまた手の込んだことに、現在の「律子」は過去の「朔太郎&アキの物語」にも関係があるという設定になっている。これも原作にはない設定だ。

 映画はまず、現在から幕を開ける。「朔太郎との結婚を控えているはずの律子の失踪」から始まるから、最初に「なぜ、彼女は失踪したのか?」という問いかけが見る人に提示されるようになっている。その謎解きという、もうひとつのサスペンスが隠されている。ラスト近くでその謎が解け、エンディングですべての謎が解ける。

 つまりこの映画は「現在軸」「過去軸」「現在と過去を関係づけるブリッジ」という3つのサスペンス・ベクトルがばらばらに進み、最後に三つが見事に収斂する。そんな離れわざをやってのけるのである。これはすごい、というほかない。

 高校生の朔太郎と、不治の病に侵されたアキの悲恋・悲劇という筋を期待して映画を見た人は、見事に期待を裏切られてしまう。

 なにしろ、純情な高校生が出てくると思ったら、あきらかにもう若いとは言い難い30歳代のおっさんがオフィスのソファで眠りこけているシーンから始まるのだ。おまけに、原作にはまったく出てこないこのオッサンの恋人がいきなり失踪してしまい、原作では主人公のはずの高校生たちがなかなか出てこない。

 原作を読んでから映画を見た人にとっては、この心地よい「裏切られ感」「焦燥感」がよろしい。「一体、どうなってるんだ?」「これ、どうやって辻褄合わせるんだ?」という期待感が生じ、最期まで持続するからである。

 行定監督が映画に加えた「原作にないもの」で、非常にすぐれているものは他にもある。まず、高校生の朔太郎とアキがカセットテープの交換日記をかわしていた、という設定である。

 カセット、ラジカセ、ウォークマンという小道具が80年代という時代を定義していることはいうまでもない。小説をいくら読んでも、音は聞こえてこない。小説になく、映画にしかできない情報、すなわち聴覚情報が加わるのである。

 カセットから流れてくるアキの声が、30代になっても朔太郎をいい意味では過去に連れ戻してくれる。裏返せば、悪い意味では20年経っても彼を呪縛している。これは、視覚情報と聴覚情報を同時に運ぶことができる映画だからこそできる、非常に効果的な改変なのだ。

 ついでに行定監督は、このカセットテープに、映画のストーリー上、決定的に重要な意味を持たせている。これも原作にはない、「アキと朔太郎の間に渡されなかった最期のテープがあった」という設定だ。

 ラストシーンで、朔太郎はアキの最期のカセットテープを手に入れ、20年の空白を経てアキの遺言を聞く。そして、そこにあった「あなたはあなたの『今』を生きて」という彼女の言葉を聞いて、ようやくアキの呪縛から解放される。

 ラストシーン、オーストラリアの赤い砂漠の真ん中で、彼がずっと小瓶に入れて身に付けていたアキの遺骨を散骨する場面は、赤い大地と白い遺灰のコントラストがとても美しい。

 ただのテープ一本で、20年間苦しみ続けたトラウマが霧散するなんて、ちょっと安易すぎる展開じゃないか。まあ、確かにそうとも言える。だが、ぼくはそれは見逃してあげていいんじゃないかと思う。それ以外の原作から映画への改変があまりに巧みだから、相対的に瑣末なことに思えてしまうのだ。

 え? 朔太郎はどうやってその「失われたテープ」を手に入れたのかって? へへへ、それは見てのオタノシミ。それがこの映画のキーファクターなのだ。

 アキが、学校の体育館で朔太郎のためにピアノを弾くシーンも原作にはない。これがいい。小説にない聴覚情報を加えるのに、これほどパンチのある場面もないだろう。

 母校の体育館を訪れ、その場でアキが弾くピアノのテープを聞いた成人の朔太郎は、アキがいまもそこにいるかのような錯覚に陥り、錯乱してしまう。これも「音楽」という小説からは流れ出てこない聴覚情報のおかげで、非常に説得力がある。同じ立場に置かれたなら、ぼくも錯乱してしまうだろうな、と思うほどパワフルなシーンである。

 これは余談だが、行定監督は光の使い方が非常にうまい。特に、白熱灯や夕焼けの自然光といった、オレンジの光の使い方がとても上手だ。

 これは「セカチュー」以外の作品にも共通して見ることができる特徴だ。これが映画全体に独特のあたたかい、やわらかな感触を与えている。かつてアメリカのエイドリアン・ライン監督はシャープなブルーの光を多用することで有名だった。行定監督のオレンジの使い方は「ユキサダ・オレンジ」といってもいいほど、作家としてのイデオムになっている。こうしたはっきりした「光の個性」を画面上に発見できる映画監督は、現在の日本ではまれだ。

 原作にないもので、効果的な小道具をもうひとつ。オーストラリアのエアーズ・ロックの写真を、二人がキャンプ先で偶然手に入れる、という設定である。

 原作ではアキがオーストラリア先住民の文化に傾倒していた理由はほとんど語られない。が、映画はこの「写真」というビジュアルな要素を登場させることで、高校生の二人がなぜ必死でオーストラリアに行こうとしたのか、という理由に説得力を持たせている。これも映画ならではの必然性といえるだろう。小説には写真を入れるわけにはいかないからだ(そういう小説もあるけれど)。このへんが行定監督の非常に巧みな点だ。「小説にはできないが、映画ならできること」を知り尽くし、片っ端から取り入れている。

 行定監督が小説を映画に改編した例には、ほかに「ロックンロール・ミシン」「GO」がある。ぼくは「GO」の原作(金城一紀)も読んでみたのだが、この作品でも改編の仕方は非常に巧みで、原作より映画のほうが魅力的である。

一方「ロックンロール・ミシン」は原作(鈴木清順)に忠実すぎて失敗している。映画も原作と同じようにひたすらだらだらしていているだけで、going nowhere(どこにも行き着かない)である。おそらく、このへんの試行錯誤から、行定監督は原作をどのように映画に改変していくのか、学習していったのではないか。映画「セカチュー」はそれが結実した結果ではないのか。そう思う。

 これはもう、ぼくがここで言うまでもないことなのかもしれないが、行定勲監督の力量は恐るべきものである。1968年生まれ、37歳でこの技量はすごいと思う。「スワロウテイル」「Love Letter」などで岩井俊二監督の助監督を務めた蓄積なのだろうか。

 すみません。ここまで映画「セカチュー」をほめてしまうと、映画「いま、会いにゆきます」について書くことがほとんどなくなっちゃうんですよね。

 もちろん、舞台が都市部から地方都市に変わっていたり、主人公「ぼく」と妻である「澪」(みお)が愛を誓う場面が、花火の湖水から満開のヒマワリ畑に変わっていたりなどなど、小説から映画への改変はいくつかある。

 しかし、どれもさえないのだ。ただ「小説をビジュアル化した」だけ、という感が否めない。行定監督が見せたような「原作にない登場人物やサブストーリー、小道具を加えて、映画を原作から独立した別個の表現体にしてしまう」というような力技を見てしまうと、どうしても仕上がりがちまちまと小ぶりに見えてしまうのである。

 もちろん、特筆すべき点はある。主演の竹内結子の演技である。この映画は、彼女の演技力の素晴らしさで成り立っているといってもいい。「死んだ妻が梅雨の間だけ帰ってくる」という、現実離れしたファンタジーが、どうしようもなくリアルに見えてしまう。それは、ファンタジーとリアリティーを自在に行き来するような、彼女の巧みな演技力に負うところがすごく大きい。

 反対に、主人公「たっくん」の中村獅童はミスキャストだと思う。「病弱な事務員」にしては、彼はたくましすぎるのだ。だから演技がどうしても大味で、繊細さに欠ける。彼の魅力の本領は「丹下左膳」のような肉体的な男性美にあると思うのだが、どうだろう。

(2005.10.13)





home.gif (613bytes)


u_han.gif (685bytes)
Copyright(C) 1997 Hiromichi UGAYA.